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私の読む「源氏物語」ー85-手習3-2

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 夜中頃かと浮舟は思ったころに、母尼は咳をし続けて起きてしまった。見るとかすかな燈火に照らされた、頭の恰好は、白髪で白いのに、黒い物をかぶって、この浮舟の寝ているのを不思議に思い、鼬がする様に手を額にかざして、じっと浮舟を見つめていて、
「おかしい、これは誰か」
 と、しつこく怪しい物と思込んでいるような声を出して浮舟を起こしたので、さてはいよいよ自分は食べられるのかと浮舟は思った。以前身を投げようとした折に鬼が私を宇治院にさらって行った時は、意識を失っていたのであったから、意識がないから、中途半端な意識などのある時よりも却って気は楽であるし恐ろしいとも何とも考えない。されど、今の、母尼の恐ろしさを、私はどのようにしたらよいかと、考えてみると難しいことに浮舟は、大変に悲惨な状態で、私は蘇生し、普通の人の状態に回復したので、あらためてまた、昔の色々の情ないつらい事を思出して悩み、中将の態度を、うるさいとも、母尼を恐ろしいとも思い、嫌なことを思うことよ。もしも私が死ぬならば、あの世で、今眼前に見ている母尼の形相などよりも、もっと恐ろしい地獄の鬼の中に、私は居るのであろうと、想像せずにはいられない。こうして昔からのことを眠られないままに
常よりも強く思い出し続けていると、浮舟はなんとなく不愉快になり、父親である八宮の御顔も自分は見ることなく、遠い東国であるのに、何度も行き来して、長い年月を、私が行って過ごし、京では、偶然に御縁を捜し求めて近づいて熱い交際を嬉しい、頼もしいと私が思った姉の中君と、意外な匂宮の一件で、縁が断絶して年月を過ごし、
その後は、私を大切な愛人として、決心なされた薫に、我が身を託して、やっと私は自分の身を安らかに出来たその際に、その機会を逃がしてしまった自分を思ってみると、匂宮を少しでも、慕わしいと、思い込んだ心が、どうかしていたのである。この匂宮の関係のあった事で、私の放浪が始まったと、考えると、橘の小島の緑の色の変らないのを例にして、匂宮が、変らぬ愛を、誓われたのに対して。小島の色は変わるのをどうして私は匂宮を風流のある人だと匂宮を思ってしまったのであろう、浮舟はどうしても匂宮を嫌になってしまった気がする。ところが初めから私に対する情愛は薄いが、柔らかく接してこられた薫は、この時はこう、あの時はあのようであったと思出すと、嬉しさが格段と胸に湧いてくる。小野にこのようにして生きていると、薫に知られると、浮舟の恥ずかしさは他の人の恥ずかしさを遙かに超えるであろう。
 浮舟は恥ずかしいけれども、然しながらこの世で薫の姿を、せめてよそながらにでも、いつか見る事があるのかと、自分が思うのはやっばり、私の悪い未練であるなあ。かような事だけでも思ってはならない、などと自分の心を思い直しているのである。
 やっと鶏の鳴く声を聞いて浮舟はほっとして嬉しかった。そうして彼女は、もしも母の声を聞いたとしたら、それはこの鶏の声以上に、どんなに嬉しい事であろうと、一夜を眠れずに過ごした今朝の気分は大変悪かった。浮舟の供をして部屋に帰るはずの女童も、すぐに来ないから、浮舟はまだ寐ていたが、大鼾をかいていた母尼達は早くに起床して粥などの、ごたごたした食事などを、うまそうに取立てて褒め、母尼は、
「姫君も、早く召しあがれ」
 と言いながら寄ってきて言うのであるが、母尼の給仕も、浮舟は、大層気に入らず、母尼の給仕するような食事は嫌らしく、今まで経験もない気がするので、
「気分が悪う御座います」
 と、いい加減に言うのに、母尼達がさらに勧めてくるのも不躾である。
 身分の低い法師達が、その日横川より多数来て、
「僧都が今日山より下り成される」
「なんて俄に」
 と、少将尼が問うと、
「帝の女一宮が御物怪に悩みなされるのを、比叡山の天台座主がご祈祷をなされるが、座主だけでは心許ないやっばり、横川の僧都も参加なさらなくては効験がないと言うので、昨日、もう一度、御召があった」
「夕霧左大臣殿の子息の四位の少将が
昨夜夜更けて、横川に上り来て、明石中宮の祈祷(修法)依頼の御文などがあったので、僧都が山を下りなすった」
 などと賑やかに言う。それを聞いた浮舟は、恥ずかしいが僧都に逢って、私を尼にしてくれるように頼もう。反対する者が少ないから、よい折りであると思い、起き出して、
「私は気分が優れなかったですが、僧都が山から下りなさるその際に、私は戒を受けようと思っていることを僧都にお伝え下さい」
 母尼に相談すると、ぼけている野か簡単に承知してくれた。浮舟は母尼の部屋からいつもの自分の部屋に戻って、髪は平素は妹尼が梳って下されるのに、妹尼の初瀬参詣中の今、外の人に触れさせることも嫌に思うが、浮舟は、自分の手で梳くのは出来ないことであるから、少しだけ自分で梳って、親にもう一回このような儘の姿を見せることが出来なくなってしまうのが、人ごとならず悲しかった。浮舟は大病を患ったので髪も少し抜けたり細くなったりした感じであるが、見たところ少しも衰えは感じないで、沢山房房として六尺ほどの先端は、可愛いらしく揃っていた。毛の筋なども、こまやかで
美しかった。浮舟は、
「『たらちめはかゝれとてしもうば玉のわが黒髪を撫でずやありけん』遍昭の歌ではないが、このように尼になれと、特に思って撫でなされたであろうか、そうではなかろう」
 と独り言で言った。
 暮れ方に僧都が到着した。僧都の座は南側正面の部屋を片づけて、飾りつけ準備したので、坊主頭の法師達が、あちこち行ったり来たり、忙しそうにしているのもいつもとは違って浮舟は恐ろしい気がした。母尼の処に僧都は行かれて、
「御機嫌は如何ですか、近頃は」
 と母に挨拶をする。
「妹尼は、初瀬に御参詣に行かれたとか。例のあの女は、今でもやっぱり此方にお出でですか」
 母尼に問うと、
「言われる通り。その女人は、参詣にも行かず、ここに残って、気分が悪いと言って、貴方より戒を受けたいと申しています」
 と母尼は僧都に浮舟の希望を告げる。僧都は立ち上がって母尼の許を離れて浮舟の処に来て、
「此処に貴女は居られますか」
 と言って、几帳の下に僧都が坐りなされると、浮舟は恥ずかしいが、僧都の方へ膝行して行って、僧都に返事をする。
「思いがけない事で、貴女を宇治で初めて逢ったにつけても、拙僧は、当然御逢いすべき、貴女との前世の宿縁があったのである、と考えまして、延命息災の祈祷を私が熱心に、奉仕致しましたけれどもねえ。しかし、法師は、はっきりした用もなくて、女人に文をさし上げたり、また受取るような文通をすることは、不都合であるから自然に疎遠な状態になってしまったようです。とにかく、世を背き出家なされた尼達のおそばに、うら若い貴女は、どう暮しなされているであろうか」