私の読む「源氏物語」ー85-手習3-2
全員が初瀬へ出立するのを、物寂しくじっと見送り出し、自分の身の上の情ないことを考えながらも、このような運命になった現在では、自分の一身をどのようにしようかと考え、また力にしている妹尼が、ここに御ありなさらない事は心細いことであると、浮舟がなす事もなく手持無沙汰にしているときに、中将から文が届いた。少将尼が、御覧になってはと、というが浮舟は聞きもしないで読まなかった。みんなが留守の間は訪問者もないので、浮舟はゆっくりと来し方行く末のことを考えて鬱ぎ込んでいた。少将尼はそんな浮舟を見て、
「はたで見ていても自分が苦しくなるほど、貴女は物を思込みなさるなあ。気晴らしに碁でもしましょう」
「碁は、下手なのですが」
と浮舟は言ったけれども、打ってみようかと思い、少将尼は盤を用意して、私の方が上手いと浮舟に先手を打たせた。ところが、浮舟はこの上なくすばらしく上手であったので、次からは、立場を変えて少将尼が先手になって打った。少将尼は、
「妹尼が早く初瀬から御帰りなされて欲しい。浮舟のこの上手な碁を御見せ申しあげたく思う。妹尼の碁も強い方です。僧都は早くから碁を好まれて、下手ではないと、僧都が、うぬ惚れておられたが、碁が上手な故に碁聖大徳と呼ばれた僧気取りにすっかりなって、いかにも出しゃばって碁を打つことは、拙僧はしないであろうが、妹尼の碁には負けるはずはないと思うなあ、妹尼に言うとそれではと対戦しなさると、二つ負けてしまった。その碁聖大徳(僧都)の碁には、貴女は、当然まさるように思う。ああ、すばらしい」
面白がるから、盛りを過ぎたよい年をした、尼剃ぎの額のみっともないのに碁などの遊び事に興味を持つので、このあと、うるさい事を私はし始めてしまったと、後悔し、そうして気分が悪いと言って臥してしまった。少将尼は、
「時々は碁を打って気分転換をなさいませ。美しい貴女が、とても沈み込んでおられるのが、いかにも残念で、玉に瑕のあるような気が致します」
と言う。夕暮れ時の風の音も、寂しく感じるのに、浮舟は思い出すことが多くて、
心には秋の夕べをわかねども
ながむる袖に露ぞ乱るる
(私の心には、秋の夕の悲哀や寂寥を、格別にそれとわからないけれども、じっと考え込んでいると、その袖に涙の露が乱れ落ちる)
月が出て、空が美しいところに、昼文があった中将が訪れてきた。ああ、いやな事、中将が訪ねて来るとは、どうした事か、と浮舟は驚いて奥深い部屋に逃げ込んでしまった。少将尼が、
「逃げ隠れてしまっては、あまりにも思いやりなしであると言うものでありますね、特別にお訪ねの親切にも、秋の夜と言うわけで、静かに落ちついた夜ではありませんか。それとなく、中将の話をお聞きなさいませ。中将の言葉が、貴女の体に染みこむように思われるのが、片意地な事でありますよ」 などと言うから、浮舟はもしや中将を夜這いさせようとはしないだろうかと、下品な想像をする。あの女は居ないと少将尼は言うが、中将は、昼の文の使いから色々と聞いているのであろう。中将は色々と言葉を多く並べて、少将尼に文句を言い、
「あの女の声も私は聞くことが出来ない。ただ彼女のそば近くで、私の申す事を聞いて、その上で、いやな事とも何とも、御判断なされよ」
と、あれやこれやと口説いて、持てあまして困ってしまい、
「本当に、私は情なくつらいのである。場所柄から物の情趣も深く感じるのである。それなのに、あまりにもこんなに冷淡なのは、恨めしい」
等と、悪口を言いながら、
山里の秋の夜深き哀れをも
物思ふ人は思ひこそ知れ
(山里の秋の夜更けの哀愁に対しても貴女の如く物を思う人は、いかにも理解するものである)
私の物思う哀愁の気持は、自然に、私と同じに物を御思いなされる貴女の心にも、きつと通ずるに違いないのに、知らぬ顔とは」
等と色々と言うので、応対に出ている少将尼は困ってしまって、
「妹尼がおりませんので、返歌をさし上げて、中将の気がすむように、取りなし申すはずの人もおりませぬ。返歌
がないのは世間の常識離れをしているようであろう」
と責めるので、浮舟は、
うきものと思ひも知らで
過ぐす身を
物思ふ人と人は知りけり
(この世を情なくつらい物とも理解しなくて、暮している身であるのに、その私を、哀愁や情趣を考える者であると、よその人は承知しているのであった)
浮舟は特別に返歌として口ずさんだわけではないが、少将尼これを聞いて
中将に伝えたところ、心を打つ歌であると彼は思って、
「それでは、こちらに少し出て下されよと、それだけ申し勧めよ」
と、ここにいる少将尼達を、やたらと口説くのである。少将の尼は、
「不思議な位まで冷淡に、あの女は見えるのであろうか」
と言って奥に入っていくと、浮舟はいつもは覗きもしない母尼の部屋に隠れていた。少将尼は浮舟が逃げ隠れた事に驚いて、中将に、浮舟は母尼の御方に逃げ隠れておるのでござりますると、言うと
「このような小野の山里に、佗しく物を思込んで御ありなされるような女の心の中が、しみじみと可哀そうであり、また、大体の様子なども、彼女は、人情知らずではあるまいと思う女で、全くあまりにひどいと思う程に、物事の道理を知らない女よりも、もっともっと、異常に冷淡に、私に態度を示しなされるようであるのが思いの外で、そんな態度を御取りなされるのも、浮気男に、何となしに懲りなされた,からか。いずれにしても、やっばり、どんな風に男女の関係を恨んで、いつまでこんな状態で居られて良いのだろうか」
浮舟の様子を聞き、浮舟の事情を大層知りたいと思うが、少将尼は細かなことは中将に言うてみよう、ただ、
「当然御世話申しあげなさらねばならない人で、この長い年月の間は、縁がなく過ごしてきた人なので、妹尼が初瀬に詣でた折に、宇治院で捜し出された人であります」
と中将に言う。浮舟は、お節介なことばかり言う手うるさいと、聞く、老いた母尼のそばに、うつ伏して、寝ても眠る事が出来ない。母尼の宵の口から眠たがるのは、言うまでもなく、恐ろしい高鼾をかき続けるのである。その母尼の前にも、母尼に相並ぶ老年の尼どもが二人臥していて、母尼に劣らないほどの鼾をかいて寐ていた。浮舟は大変恐ろしく、今夜はこの老人達に食べられてしまうと、思うが食われても惜しいとは思わない身であるが、例の如く、浮舟の気の弱さは、昔物語にある丸木の一本橋を渡って行くのを頼りなく不安に思って、渡らずに帰って来たとか言うように、ここ尼庵にいるのを頼りなく不安に思い逃げ帰りたくおもう。浮舟は女童達と一緒にいたのであるが、女童は色気がついて、この珍しい男の中将に異性の居る方に行ってしまった。浮舟がいくら待っていても女童達は帰ってこなかった。大層当てにならない、頼みの人である。中将は浮舟に愛想を尽かして帰ってしまったので、少将尼は、
「大層人情もなく、引込み思案でいらっしゃいますわねえ」
「惜しい御容貌であるのにねえ」
等と浮舟を謗って少将尼達は一つ所に皆が寝た。
作品名:私の読む「源氏物語」ー85-手習3-2 作家名:陽高慈雨