私の読む「源氏物語」ー78-東屋3-2
迎えの車が出発しようとした頃はいくらか明るくなっていた。その時に匂宮が内裏より帰ってきた。彼は若君の事が気がかりで気になってしょうがないので微行の形で、車などは正式でなく略式にしていたが、北方の車と行き合って、北方の車は立ちどまり、宮の車は廊に寄せられて、匂宮は下りなさった。匂宮は誰の車であろうか朝早く暗い中を急いで出て行くのはと、目をとめて見ていた。そうして、忍んで行った女の所では、このようにして暗いうちに急いで、目立たぬように誰でも出て行くなあ。匂宮の心にしみ込んでいる体験で、薫であるかと思うのである、気味が悪いこと。
「常陸殿が御帰りなされるのである」
と北方の供の者が言う。匂宮の若い前駆の者どもが、
「受領風情の妻を、「殿」などと、匂宮の御問に対して、憚りもなくはっきりと申したものである」
と笑うのを聞くと北方は、匂宮の前駆の者連の嘲笑うのもその通り、匂宮などに比較しては、この上なく劣っている身分であるよと、自分の身分を悲しく思うのであった。ただ浮舟のことを思うが故に北方は人並の者になりたく思うのであった。自分が、人並の者になりたい以上に、浮舟自身をつまらなく平凡に受領の妻などに落ちぶれさせて見るようなことは本当に惜しいと、新たに思うのであった。匂宮は中君の対に入っていって、
「ここに、常陸殿と言う人を、出入させなされるか。気持ちの良い趣のある夜明け方に、急いで出ていった。車の左右につく車づきの供の者などが、人目を忍んでいるように見えたが」
と、それでも薫を疑って言うのである。中君は聞きたくもない、ことを言うと、
「大輔 達が若い時の宮仕えの友人であった常陸介の北方は、当世風で花やかにも見えないのに、訳ありそうにわざとおっしゃいますねえ。貴方は、人がきっと聞き咎めるに違いないと言うことばかりを、何時も誤って考えなさるのが、本当に私は辛いです。無実の浮名をば言いふらして」
と匂宮に中君が文句を言うのが、可愛くて二人の仲が伺える。
その夜の二人は気分が高ぶって、中君は六君への対抗心があるのか匂宮の男の欲を思う存分引きだし、自分も女体を充分に宮に満足させて長い睦み合いを続け、夜の明けるのも気がつかなくて寝ていたところへ、上達部達が沢山集まってきたので、匂宮は寝殿に帰った。明石中宮の病はそう大きな事もなく快復されたから、集まった連中は気持よさそうにして、夕霧の子供達は碁打ち、韻塞 これは絶句でも律詩でも、少くとも一句だけどこかの韻字を残して置き、他の韻字を当てさせる。そのような遊びに興じていた。
夕方に、匂宮が中君方の西対にやってくると、中君は丁度上を洗っている最中であった。女房達も自分の局に入って休憩中であり、中君の部屋には誰もいなかった。ただ、中君の召使う小さい女童がいたので、中君の所へ使にやって、
「運悪いときの洗髪の時では、どうしても貴女は見られるのは嫌でしょう。洗髪の終るまで、私は一人寂しく退屈でぼんやりして居るのか」
手伝っていた女房の大輔が匂宮の許に来て、
「運悪くとおっしゃいますが、その通りで、宮の御越しなさらない、そのひま毎にいつもは洗いすましております。中君はなぜか平生は、洗髪をいやがりなされるので、今日を逃すとこの八月は吉日がありません、九月十月は髪を洗うのが忌月ですので、私に洗髪のことを手伝わせておられます」
大輔は、匂宮を気の毒がる。丁度若君も昼寝をしていて若君の所に、女房の誰や彼やが付き添っているので、匂宮は手持無沙汰で、あちらこちらを立ち止ったり歩いたして、西対の北面、即ち北廂の方に、見馴れない女童(浮舟の召使)が見つけて、新参の女房か、と彼は思いそっと覗いてみた。西対の母屋と、北廂の仕切りの障子の、中央あたりの障子が細く開いていたので、彼がそこを見てみると、障子の向こうに障子から一尺ばかり離れて屏風が立ててあった。屏風の端に、続けて、(東方に)几帳を、簾垂に並べ添えて立てて置いてある。几帳の五ひらの帷子の中、どの帷子かを、一重(一ひら)まくりあげて、手に掛けているのでその隙から紫苑(薄紫に青味のある)色の立派な単衣に女郎花の花の色、即ち黄色で、模様を織出した綾と見られる袿が、重なって袖口が出ていた。六枚折の屏風の中一枚だけが、畳まれていた、その間隙から隠れているから見られるとは思わず、中君が常陸介の妻から預かった浮舟が見えた。匂宮はまだこの女が誰であるかは知らない。彼は新参の女房で容姿が良い者であろうと思いこの間に出入する、西の端の襖をこっそりと気づかれないように開き背後より浮舟に近づくが浮舟は勿論誰も気がつかない。浮舟の前にある中庭の植込みが可愛らしい秋草を咲かしているところに、遣り水が通る石の溝の高さが上手く調和して見応えがあるのを脇息にもたれて浮舟は眺めていた。匂宮は近づいて開いている障子を更に広く開けて、屏風の端から浮舟を覘くと、彼女は匂宮とは思いもしないで、いつもの女房が来たのであろうと、思い脇息から離れて体をただして起きあがった容姿が、非常に感じが良く宮には見えたので、何時もの浮気心は、この場をそのまま見過ごさなく、彼女の衣の裾を捕まえて、匂宮が今あけてはいって来たこちらの北廂に通う障子を閉めて、障子と屏風の間に彼は居た。浮舟は何かおかしいと感じて扇で顔を隠して振り返り匂宮を見るその仕草が、とても艶があった。匂宮は扇を持つ彼女の手を捕らえて、
「そなたは誰かな、私は名前を知りたい」
と言うが、浮舟は薄気味が悪くなった。匂宮も屏風のそばで、顔を屏風の方に向けて、顔が見られないように隠して彼女に向かっているので、浮舟は匂宮とは分からずに、あの自分に聟となろうとする薫大将かしらん。素敵な香りがするなあ、など自然に思われてくるので恥ずかしくてたまらない。乳母がなんとなく人の気配がすると怪しんで、北廂の北側、匂宮のはいった障子の向う側にある屏風を押し退けて入ってきた。浮舟の手をつかまえた匂宮の格好を見て、
「これは、どんな事情でござるか。ひどい事をなさいますなあ」
と、匂宮に言うが、こんな事は、匂宮に取っては、遠慮する事でもないから平気な顔でいる。匂宮はこのような
出し抜けな出来心からの行為であるけれども、好色に馴れた匂宮である上に口数の多い性格であるから、浮舟に浮いた言葉を何やかやという内に日が暮れてきたのであるが、匂宮は、
「名前を聞くまでは手を放さないよ」
と、馴れ馴れしく、浮舟の側に横になったときに、浮舟は、これは匂宮なのであったと、わかってしまったから、浮舟は呆れていたが、乳母も言葉がなく呆れていた。匂宮が浮舟方にいる時、女房達は、燈明を軒の燈籠にともして。
「中君は、御洗髪が終り只今、すぐに」
「居間の方に戻られます」
作品名:私の読む「源氏物語」ー78-東屋3-2 作家名:陽高慈雨