私の読む「源氏物語」ー76-宿木ー3-3
うらやましい気のしたのは、薫の心も普通の人間生活に融けこんだと言うことであろうか。自分の子として世話したく、羨しいけれども、亡くなった大君と世間並みの婚姻して、このような可愛いい子供を彼女はこの世にのこして死んでしまったならば、心が慰められたことであろうと考えて、薫としては、名誉な婚姻をして妻の女二宮に、何時子供が生れるであろうか、などと言う事は、考えもしないことは、手のつけようのない薫の間違った心の持ち方である。このように、弱々しく心のひねくれているように、敢えて語るのは、いかにも薫には気の毒であるが、今語ったように、性質が悪く、不完全であるならば、そんな人を帝の側近くに他の人よりも近づけて、聟となさるようなことはなさるまい。おそらく薫の政務方面の才覚などが、他の人に勝れて感じが良いのを高く評価されたのであろうと、推量することが出来る。薫の気持に逆らうまいと、我が子を薫に見せたのも、中君が考えた通り、なる程薫は可愛らしい赤児であると見ていた。薫はいつもよりは話などをこまごまと中君としているうちに日が暮れかかったので、彼は女二宮の許に通うためのんびりと、ここ二条院で夜更かしが出来ないので、立ち去るのは苦しいが、溜息をつきながら中君の前から去っていった。
見送る女房は、
「風情のある、薫の匂であるなあ」
「古歌の、『折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやこゝに鴬の鳴く』(花を手折ったので、袖が薫っているのだが、梅の花があると思ってか此処に鶯がやってきて鳴いているよ)と言うように鶯が飛んでくるよ」
と、高い薫の体臭を嫌悪する、若い女房もいた。
夏になると、女二宮の住居の藤壺から薫の三条宮は、塞がる方角にきっとなるに違いない。夏に移るのは悪いと、薫は考えて、四月の一日季節の分れ目、立夏がまだ来ない前三月中に、女二宮を薫の三条邸に内裏から移した。明日は移動の日という時、藤壷(飛香舎)に帝が来られて、庭の藤の花を愛でて別れの宴を催された。藤壷の、南面の廂の間の御簾を巻きあげて玉座の倚子を置いた。この宴会は公式な会で藤壷の主人である女二宮が主催するものではない。上達部や殿上人の饗応などは、内蔵寮から用意した。招待された客は左大臣タ霧、柏木の弟の按察大納言(紅梅右大臣)鬚黒の長男の藤中細言その弟の左兵衛督、親王達は、三宮の匂宮・常陸宮らが参列した。藤壺の南の庭に咲く藤の花の許に殿上人の席が作られた。後涼殿の東の庭に、公式に楽所の楽人を召して日が暮れる頃になって人々は、双調を吹いて遊ぶ。この、帝の主催の演奏に女二宮方から絃楽器(琴)などや管楽器(笛)などを出されたから、それらの楽器類を、タ霧を始め按察大納言以下の人達が、帝の前に持ち運んだ。また亡くなった源氏の自書して女三宮に贈った琴の譜二巻を五葉の松の枝につけてある御進物を、薫が婿として帝に献上するのを、タ霧が薫から受取り、帝に琴譜を奏上した。更に女三宮に伝来し薫に伝わった琴・箏・琵琶,和琴などを、順々に御前に、タ霧以下の人々が持ち運ぶ。元々は朱雀院のものであった。笛は、かつて柏木のあの夢の告げで、タ霧から今薫に伝わっている、またとない音色であると、帝が褒められたので、今回の花やかな演奏以上な催しは、二度とは無いと薫は思い取り出したのである。夕霧には琴、匂宮には琵琶と色々と帝より下賜された。薫の笛は今日という今日、いかにも、この世にない音のありったけをば吹奏した。殿上人の中から歌を歌う事に不得手でない者達を、彼らの席である南の庭の藤の花の下から、御前に召し出し面白く謡わせた。
女二宮方から粉熟を肴に出しなされる。それを、沈香木で作った折敷四枚と、紫檀の高杯とに盛り、あちこちを濃くまた薄く染めた、藤色の打敷(折敷や高杯の下敷)を敷き、打敷には藤の花の折った枝を刺繍してあった。銀の台に、瑠璃の盃と、瓶子(徳利)を載せてあるが、瓶子は紺瑠璃で七宝の一つある。兵衛の督がお酌をする。帝から盃(天盃)を戴くのに、タ霧は、自分一人度重なっては工合が悪いのであろうが、それはそれで又、宮達(匂宮・常陸宮など)の中に、何れも帝の皇子で珍しげもないから当然、大盃を戴くような方もいないので、薫に夕霧は譲ろうとするが、恐縮して辞退するが、帝の思召しもどうであったのか恐らく、思召しは薫にあったのであろう、薫は天盃を戴いて、捧げ持って、
「頂戴いたします」
と言う声色と動作まできまりきった、普通の公式の挨拶であるけれども、薫の所作は人とは違って見えるのは今日の日は一段と、今上の婿として見るからであろうか。
薫は天盃から酒を移して飲むための土器(かわらけ)即ち「さし返し」を戴いて飲み、傍の階段から庭上に下りて帝の御前に向って御礼の舞踏(拝舞)をして、自分の座席に帰る、その一連の行動が見事であると人々から声望をはくした。年輩で上位の、親王や大臣などが天盃を帝から賜ることでも目出度いことであるが、薫の場合は、上臈の親王方や大臣方にも増して、今上の婿で
天盃を賜るような引き立ててもてなされるのは一通りでなく珍しい例がないことであるけれども、身分というものがあるから、薫が末の座席に帰って着座するのは、光栄に対比して気の毒に見える。
亡き柏木の弟の按察の大納言は、自分こそは、帝の婿のような光栄をも見たいものであると思っているのか、うらやましいことであると心で思っていた。女二宮の母である藤壺女御を昔自分の嫁にと考えていたのであったが、彼女が女御として内裏に上がってから後も、藤壺を忘れることが出来ずに文を送ったりなどしていたのであるが、希望は叶うことが出来ず、今度は女二宮を得んものと女二宮の聟となる気持ちを藤壺女御に告げていたが、藤壺は聞かなかったことにして帝には告げなかったので、女二宮の婚姻を気にくわないことと、
「薫の人柄は女二宮の聟となった通りなる程、全く前世の運が格別なようであるけれども、在位中の帝が、かように大袈裟な風にまで、どうして、婿の世話をなさるのであろう。またと例はあるまいなあ。宮中の中で帝が居られる清涼殿にちかい藤壷で、平人の薫が馴れ馴れしく通って来て無礼であるのに、その結果は宴会やと大騒ぎをするとは」
と大層帝を非難し、女二宮を得られなかった不平をぶつぶつ言っていたが、それでも相当に藤花の宴の様が見たいかったので参加をしていたが、心の中は腹立たしさで一杯であった。祝賀の歌などを献上する庭上の文台のそばに、紙燭に点火して近寄りながら記入した懐紙を置くのは誰もが得意顔であるけれども、そこに書かれた歌などは、いつもの例でただ古めかしいだけであると推測するから、強いて此処には記載しなかった。上流階級でも、官位の高い方々と言って詠い方は変わったのがあるが、この宴の記念だけと言うので、かつて一、二首を、作者の私は尋ね聞いておいた。これ(次の歌)は薫が庭に降りて、藤の花を折って帝の冠の挿頭にと、帝へ申し上げた歌だそうである、
すべらぎのかざしに折ると藤の花
及ばぬ枝に袖かけてけり
(帝の御冠の插頭の花として藤の花を折る考えで、藤の、及びもつかない花の枝に袖を掛けてしまったのであった)
帝の婿顔に得意なのが、いかにも憎らしい、そのお返しは、
作品名:私の読む「源氏物語」ー76-宿木ー3-3 作家名:陽高慈雨