私の読む「源氏物語」ー72-総角ー3
祈祷などと言うことは僧が病人の部屋に入り病人は見られるので、其れが大君には見苦しく嫌である。それに彼女は世を捨てようと思っているのであるから、何で祈祷が必要なのか、と薫の言葉を聞かないと思うが、祈祷など必要はないと言う事を、あからさまに薫に言うのも、変であり、せっかくの薫の好意に反対するのも嫌であるので、そのまま準備は進んでいった。世を捨てようと考えている身でも、薫が長生きしてと言う思いは、大君は有り難く感動していた。
翌日、薫は、
「今日は如何ですか、すこし良いように思われますか。昨日ぐらいの話は出来ましょう」
「何日か臥せっておりますと、今日は少し苦しいようです。ですが折角お出でになったのですからどうぞこちらへ」
と大君は薫に話し始めた。薫はそんな大君を悲しく思い、彼女はどうなるのだろう、死の病なのであろうか、以前よりも今日は、人なつかしい様子であると思うと、胸の鼓動が烈しくなるように思われるから、近くによって色々と世間話をする。大君は、
「苦しくてとても返事が出来ません、少し苦しさが収まりましたら、その時に申しましょう」
と、声も微かで衰えた様子が薫の心を烈しく撲ち砕いた。それでも宇治にこのようになすこともなく滞在するのはどうかと思って、薫は、大君のことが気にはかかるが、都に戻った。退出するときに弁御許を呼び、
「この山荘での闘病はやっぱり、自分は気がかりで、祈祷のために、この場所を離れ物怪などを避けるための場所替えするのにかこつけて、京の適当な場所に大君を移しましょう」
と言い置いて、阿闍梨にも、しっかりご祈祷を頼んで山荘を後にした。
薫の供の者の中に、何時しかこの山荘の若い女房と懇ろになった者がいて、二人それぞれの話は、男は、
「匂宮が忍びの歩きを帝や明石中宮に止められて、内裏から出ることが出来なくなっている。夕霧左大臣の六姫、源氏の乳兄弟である惟光の娘藤典侍との間の姫である。嫁がせる手はずであると言うことである。姫の方は念願の匂宮であるので断ることはないから、年内に婚儀が行われると言うことである。匂宮はこの婚儀に気乗りなく、内裏でも女房達を追いかけて浮気に専ら熱中で、父帝や母明石中宮の叱責にも、浮気が収まりそうでもないようです。我が殿の薫中納言は不思議と、他の人には似ないで、あまり真面目でありなされるので、人からは、厄介がられておられます。この山荘にお出でになるのは意外なことで、情愛の深さが普通ではあるまいと、人が言ってます」
と女に語ったのを、女は早速同僚達に話し、其れを姫達が聞いて、驚きのあまり胸が詰まってしまう。大君は、今は中君と匂宮の間も最後であるということ。身分の高貴な六君に、縁が決まらない間のお遊びに中君をこれほど思っておられたのだから。なほざりのお遊びではあるけれども、さすがに、薫などから薄情者と思われないようと考えるので、言葉の上だけ、情愛は深いのであったなあ。余り知識のない大君が解釈するので、最後には匂宮の薄情は恨む余裕はなく、宮中のことを知らない彼女には匂宮の辛さが分からず、どうしてよいやら心の収拾がつかなくなり、折からの病が烈しくなってぐつたりと横たわってしまった。
病人で、衰弱している、大君の気持は、この匂宮と六君の件によって、いよいよ、この世に生き長らえそうにもないと考え。ここにいる女房連中は、別段、気の置ける人達ではないけれども、匂宮と六君の件を聞いて中君は何と思うであろうかとまた話の種になるのが嫌で、女房達の話すのを聞かないようにして、中君は寝ていた、「垂乳根の親のいさめしうたゝ寝は物思ふ時のわざにぞありける」というが、うたた寝をしている中君の姿は本当に可愛らしく、腕を枕にしているその腕の上に、髪の毛がまとわりついているのが珍しく可憐であるのを、じっと見つめながら、大君は「夫を持つな」と言われた、亡き父、八宮の戒めの言葉を何回も何回も思い出しすと悲しくなって、父宮はこんな二人を見ていて、罪が深い人が堕ちるという地獄によもや沈むことはあるまいと思うが、然し、どこでもかしこでも良いから父宮のおられるところへ私達二人を迎えてください。私達がこのように思い悩んでいるのに、夢でも現れてくださらない。大君は寂しく思い悩み続けるのである。 夕暮れの空から寂しそうに時雨が降って、木々吹く風がを聞く大君はどうしょうもなく過去未来を考えて、脇息にもたれ掛かっている姿は品が良い姿であった。病のため白い小袿を着て髪は梳ることもしないで時が経ってはいるが、乱れもなく無造作にしているが、病になって日にちが経ちその間に顔色は少し青白くなったが、かえって優美さが勝れそうして外を見つめている目つきと額の格好も、絵師ならば見せてやりたいほどである。昼寝をしていた中君は、風の荒い音に目をさまして、起きあがり、着ているものは、山吹色の小袿に、薄紅梅色の下襲などで、あざやかな色あいであり、顔はなにかで染めてつやっやと美しくしたようであり、見れば風情があり、ほんのりとして立派であるが何も考えている様子はない。
「亡き父宮が夢に現れました。何か心配の御様子で、そう、この辺におられました」
と目の前を指して言う。聞いて大君は更に悲しくなって、
「亡くなられた後、私は何とか夢であ会いしたいと思っているのですが、私は見たことがない」 と姉妹二人が涙を流して泣きだした。
「私は最近父宮のことを毎日思わない日がありませんのに、魂はいずれにおられるのでしょうか。どうすれば父宮の魂がおられるところに参ることが出来るのだろう。罪深い私では難しいのであろうか」
と、大君は死後の世界のことを心配している。唐国に昔あったと言われている香の反魂香の煙が手に入らないかと真剣に思うのである。反魂香とは、漢の武帝の夫人たる李氏の故事で、李夫人亡き後、武帝は甘泉殿内に、夫人の図像供養をし、方士に霊薬を調合させて香を作らせ、それを金の香炉に焚いた。香煙の間に夫人の姿がほのかに出現したと伝えられている、ことを言うのである。
暗くなってから匂宮よりの文があった。悲しんでいるときであるから、大君も、いくらか苦痛が和らぐであろう。中君は文を殆ど見ない。大君はそれを見て、
「それでも気持ちを正して大らかな気分で返事を書きなさい。このような私の体であるから、私が死んだ後で、匂宮以上の遊び人が露骨に中君を狙ってくるやも知れないと、心配していますから、そのような時に匂宮の間が続いていれば、匂宮を憚って中君に懸想をする者がないでしょう。そう思うと匂宮の薄情は辛いでしょうが、頼みにしなければなりません」
と、中君に注意すると、
「返事を書きましょう、と姉君が思われること自体が、悲しみは烈しくなります」
と中君は泣いて夜着に顔を埋めてしまった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー72-総角ー3 作家名:陽高慈雨