私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2
匂宮は夜明けると妻戸を自分で開けて中君を誘い二人で外を見ると、霧がかかっているのが、宇治という場所からの雰囲気もあって、いつも川を通る柴を積んだ舟が霧に隠れたり現れたりするその舟の航跡の白浪が、見なれない珍しいものが見られる住まいであると、花やかな気質の匂宮には、良い眺めに感じるのであった。山の端がやがて見えるように朝が明けてくると、横にいる中君の姿がはっきりとしてきて、本当に美しい女であると、匂宮は自分の姉である女一宮などのように、この上なく大切に世話して育てられた姫宮でも、中君程ぐらいにしか見えない、ただ、自分と同じ母を持つ皇女であると一宮を思うと、身内の欲目か女一宮が、どうも可愛いいと思うのである。
中君の奥ゆかしい美しさなどには、もっと打ち解けて融けこんでみたいと、匂宮は、このように簡単な逢瀬で、却って気持ちが中君に奪われてしまい一層離れ難い気持がする。川波の音が烈しく、宇治橋が何となく絵になるように見えるなど、霧が晴れてゆくと喧しい岸の辺りを、
「このようなところで姫達は長年暮らしたのですなあ」
と匂宮は呟いて涙ぐまれるのが中君は、恥ずかしかった。匂宮の様子が、この上なく優美に、綺麗で、この世だけでなく来世も契ろうと匂宮が言うのを、中君は考えても見なかったことと
は思うのであるが、今まで見馴れた薫に逢う恥ずかしさよりは、むしろ気を遣わなくて済むと匂宮との契りを思うのである。また薫の恋の相手は大君であるから、私でなくて別なので、自分と合うときはひどく取り済ましていて逢いづらく、これまでは気を使うこともない人と彼女の気持ちの中にはあったが、それよりも匂宮との間にはもっと楽な感情があると思った。匂宮のことを以前に、噂を耳にして想像した時は、薫より以上に、この上なく遠くの存在に思い、彼の簡単な文に返事をするのさえ、以前は恥ずかしくて書きにくかったのであるが、今は匂宮から、暫く此方にこれないが心細かろうと、言われて自然に、彼のことを考えずにはいられない気持ちになるのも、自分ながら性格が変わったものであると、中君は自分の変化とともに、他人の心を理解出来るようになった。
匂宮の共人がやかましく帰京をと叫ぶので、京に到着する時刻を真昼間でない刻限にしよう」と、気ぜわしそうにして、中君に心ならずもするような夜のとだえを何回も謝っていた。
中絶えんものならなくに橋姫の
片敷く袖や夜半に濡らさん
(夫婦の仲は絶えるようなものでないのに宇治の橋姫の貴女が、二人寝る時は、互に袖を敷き合うが、独り寝の片一方だけ敷く袖を、寂しいと思う夜の涙に濡らすであろうか)
出がけにまた、戻ってきて詠いまごまごする。中君はすかさず、
絶えせじのわが頼みにや宇治橋の
はるけき中を待ち渡るべき
(夫婦の仲をとぎれさせたくないと思う事の、私の頼みで、とぎれ勝ちな逢う瀬を待ち続けて、私は暮らすのであろうか、それは心細い事である)
言葉にはしないが、浮気の評判高い匂宮には、来訪が途絶えるであろうと、中君が何となく恨めしそうに匂宮をじっと見つめているのが、本当に可愛い娘だと、見ていた。
若い女性の心を魅了すること間違いない匂宮の朝の姿を見送って、立ち去った後に残った宮の香りをじっと感じ、中君はこの三日の同衾で艶のある女になっていた。出立の遅かった今朝だったので女房たちは匂宮を初めてゆっくりと見ることが出来た。女房達は、
「薫中納言殿はおやさしく、気恥ずかしそうな様子が、あるようで」
「ご身分が親王なので薫君よりも一段高いと思うせいであろうか、匂宮様はひときは美しく見える」
褒めていた。
帰途の道すがら匂宮は中君が情け無い顔で見送ったのを思い出して、宇治に向きを変えたくてたまらないと、格好が付かない程まで、今別れた中君を恋しく思うのであるが、世間の噂も考えて帰ったのであるが、宇治から帰ると、その後は簡単に人目を避けて、宇治へは行けない状態で、文は毎日毎日、一日に何回も書いては中君に送るのである。この文があれば匂宮の心は変わらない、思いながらも、匂宮の来ない不安な日数が多くなるのを、本当に気がもめる事である、見たく思わないと以前には考えたこともあったが、今では大君は、自分のこと以上に中君が気を滅入らせているであろうと、大君は心配するのであるが、自分が不安げにしていると、中君が一段と沈み込んでしまう、大君は何げなく平気を装うて、自分だけでも、夫など持ってこんな夜がれの不安な気持を、味合うこともないと、独身の覚悟が益々固くなった。
薫中納言も、匂宮が来るのをさぞかし宇治のみんなは待っているであろうと、宇治の姫達を思い、このように苦しますのは、匂宮を手引きした自分の過失であると、二人の姫に気の毒なので、匂宮に会う度に注意しながら、始終匂宮の様子を見ていると、中君を大変愛して、宇治へ行けないことを気にしているようであるので、渡ることが少し絶えていても、中君を捨てるようなことはないと安心していた。九月長月も十日近くなると、野山の景色が変わり、何となく寂しい感じがしてくる上に、時雨が多くなり周囲を暗くし、空に群がる雲が恐怖を感じる夕暮れの空を、匂宮は常よりも落ちつきがなく、宇治の事をじっと考えてながら眺めて、どうしようかと、自分の心一つで宇治行へ行きたいのにに、出掛けることが出来ない。そんなことであろうと薫が宮の前に現れて、
「時雨の降る山里は、寂しいことでしょうよ」 匂宮を驚かしながら言う。匂宮は薫の来訪を喜んで一緒に宇治へ参ろうと誘うので、いつものように、八月二十八日彼岸の終わりの日に車一つに同乗して宇治へ向かった。山道に入るに従って、山路の寂しさから自分よりも中君が、物思いに沈みこんでいるであろうと、色々と想像するのである。道中も殆ど薫との会話は中君の苦しみをあれこれと言うのみであった。タ暮れ時で、付近の空気から寂しい上に、冷たい雨が降り止まず秋が終わるという季節の変わり目
の感じが恐ろしいようで、その様な中、時雨に濡れて匂宮と薫が、そんな寂しい侘びしい空気を吹き飛ばすように艶やかにきらびやかに山荘に到着すると、山荘の人達はお迎えにうろたえてしまった。
匂宮の夜離れという嫁を蔑ろにすると、女房達が毎日ぶつぶつと文句を言っていたのが、そんな不満顔を何処かへやってしまって、微笑みながら座席造りをする。都に働きを求めて、あちこちの邸宅に分れて奉公している、この山荘の老女房達の娘達や姪を、二三人探し出してこの山荘に来させていた。日頃こんな山中に住む姫達と馬鹿にしていたこの京から来た女達は、匂宮と、薫が客人として来ているのに驚き、匂宮の来られたことを大君も喜びが、気にする薫が同行しているのが恥ずかしく思えるので、煩わしいことと思うが、薫が気性が落ちついて、思慮深いから、なる程、世間の人の言う通り、匂宮は、薫君のように落ちついた方ではなかったと、両人を見くらぺると、薫という人分を、世にも稀に立派であると、大君は分かるのであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2 作家名:陽高慈雨