私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2
薫は匂宮を馬で暗くなってから山荘に来るようにして、弁御許を呼んで、
「私から大君へ一言言いたいことがありますが、大君が、私を嫌いなされておられるので、私としては恥ずかしいことではあるが、このまま引っ込んでばかりいて、だまってすます事ができないから、もう少し夜が更けてから、私を、先の夜のように中君の許へ忍ばせて下さい」
と、隠し隔てもなく、話されるから、弁御許は、手引するのは、大君でも、中君でもどちらでも良いのだと、思いこんで、大君の許へ行った。弁御許は大君に、薫の言葉を伝え、聞いた大君は、さては私の思惑通りに薫は中君に心を移したなと、嬉しくなり、安心して、薫が中君の室に入る通路ではない方の、廂の間の襖を固く鍵を締めて、薫と対面した。薫が、
「一言だけ申しあげねばならない事で、他人に聞こえるほどの大声で申しあげることではありませんので、このように襖を閉めての対面は 全く、窮屈でありますよ」
と大君に言うが、
「これで良く聞こえています」
と言って襖を開けることはしない。大君は、薫が、中君に心を移したことを只そのまま、だまつてはいまい、何事かを当然言うはずであろうと思っているであろうが、まあそのことを拒むようなことはしない。今始めての対面でもないから、無愛想に返事をしなくて、気持よく逢い、夜も更けてのことだし早く中君の所に行かせよう、など考えて廂の間の襖のそばまで、寄っていくと、襖のすき間から薫は大君の袖を捕らえて、力強く引き寄せて色々と恨みことを言うので、大君は、
「本当に酷いことをなさいます、これでは対面など聞くことが出来ませんね」
と、大君は腹が立つが、気の重い事であるけれども、薫をすかし宥めて帰してしまおうと、考えて、自分と中君を、同様に思って下されるように、中君の事を、それとなく話をした、大君の気持は、しみじみと薫の心を打つ。
匂宮は薫の指図通りに、先夜薫が忍び込んだ部屋の戸口で扇を鳴らすと、弁御許が中より出てきて匂宮を導き入れた。慣れた弁の様子が面白いと匂宮は思いながら、中君の許に入っていった。このことは大君は全く知らなかったうえに、むしろここで薫を言い含めて中君の許に送り込もうとしていた。薫は匂宮が中君の処に夜這いをかけたことを大君に黙っているのが、気の毒に思い、
「実は、匂宮が中君を慕っておられるので、私は反対すること出来ず、同道して参りました。
今ここ中君の処におられます。こっそりと中君の処に夜這いされたのは、ここの出しゃばり御許の手引きでしょう。匂宮は上手く御許を騙されたのでしょうよ、大君に嫌われ中君は匂宮に取られ、中途半端なことで女房達の良い笑いものにされてしまいましたよ」
聞いた大君はまったく意外なことであったから、頭が混乱してなにもわからなくなるほどに残念で腹が立ち、薫が憎く、
「いろいろと変わったことをしなさる貴方とは存じ上げずに、私どもが万事に貴方を信用していたのが、あなたには面白く見えていたので辱侮辱なさってお出ででしたのね」
大君は悔しくて、暫く言葉が出なかった。その様子を見て薫は、
「こんなになってしまった今は、何と言っても
お聞きにならないでしょう。ご立腹へのお詫びは、幾重に申しあげますが、それでも納まらないならば、私をつねりもし、ひねりも叩きなされてもよろしゅう御座います。貴女は帝の子供である身分の匂宮に、心は向いてお出でであるようであるけれども、宿縁という物は自分の思い通りには行かないものであります。匂宮の思いを寄せている女は、貴女とは違って中君です。私は、貴女を気の毒に思いまするけれども、貴女が私の思いを受け入れてくださらないのが、自分の身の置き所無く悔しく思っています。宿縁と思って、どうにもならない事と、強情を張らず私の願を叶えて下されよ。この襖を固く締め切っておられることも、私達二人の仲を、真実に、潔白と思う者はいませんよ。私を夜這いの先導者として匂宮が誘ったのも、私が貴女に拒絶されてふさぎ込んで、一夜を明すであろうとは、とうてい思ってはおられないと思います」
と言って薫は襖を引き破る勢いであると大君は思い言葉無く不快であるけれども、ここで、薫をすかし宥めようと、気を鎮めて、
「貴方の仰せの宿世というようなことは、目に見えぬ事で私には将来をたどって行くことが出来ない、どうしても信用ならないことです。将来の貴方の私に対する情愛がどうであるか、『ゆく先を知らぬ涙の悲しきはたゞ目の前に落つるなりけり』という歌があります、将来が分からない悲涙だけが、霧のように目の前を塞いでいます。今度は、私達を、貴方はどんな目にあわせようと、考えておられるのでしょうと、私は、不運を夢見ているように呆れております。だから私達の将来を例に挙げて言い出す人もあれば、昔物語のように、滑稽めいた愚か者風に作り出している例に、丁度良いと私達がなりますことでしょうよ。貴方がこのようにたくらみなされる気持の真意に対して、匂宮は貴方がどんなお考えであろうかと、推測されて良くは御思いなさるまいと思いますよ。こんな苦悩を大袈裟に私達に与えないでくださいませ。貴方のたくらみのつらさに、私は堪えられず死ぬと思いますが、もし思の外生き長らえるならば、そのときにいくらか落ちついて御話し申しましょう。只今は心乱れて何も考えられませんからこまま休ませていただきます。この袖から手をお放し下さい」
と大君は、叮嚀に詫びを言われるので、薫は途方に暮れながらも、大君が道理を筋道立てて言われた事が、聞いていて薫は気恥ずかしく、さらに大君を愛おしく思い、
「大君よ。貴女の心を破らずに、言われるとおりに従う事が、私は人一倍堅物ですから、今日まで、貴女の冷淡さお我慢して、人から見ると可笑しいでしょうが、手出しもせずにおります。
それなのに貴女は言いようもなく憎くい嫌らしい者におっしゃるから、貴女にどう対処して良いか方法がありませんね。このままでは、私はこの世に生きてはいけません」
と言い更に、
「私のことが目障りで悩んでいると言われるならば、襖を隔てたままでも、思う事を言いましょう。私を全くないように見捨てなさいますな」 と言って大君の衣の袖から手を離したので、大君は奥に入っていき。それでも完全には入らずに中途のところで止まっているのを、可愛い人であると、薫は思って、
「これ位の僅かなお話で、今夜は夜明かしいたします。けっしてここから中に入るようなことはいたしませんから」
と言って薫は一睡もしなかった。夜が更けてたりが静かなので、宇治川の流れの音いよいよ烈しく聞こえる、その音に更に眠ることが出来ずますます目がさえてきて、夜なかの風の音に雌雄が谷を隔てて別々に寝る山鳥のような気がして、一夜を苦しんで送った。
いつものように夜が明ける頃に山寺の鐘の音が聞こえる、匂宮は寝坊なので、中君の許から、出て来ることもないであろうと、薫は、匂宮と中君の昨夜のことを想像すると、むしゃくしゃと妬ましく思い、空咳をするが、紹介者の薫が惑うて、山鳥のように女と別れ別れに明かし、紹介した匂宮が女と良く眠っているのは、考えてみると変なことである。
しるべせしわれやかへりて惑ふべき
作品名:私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2 作家名:陽高慈雨