私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2
案ずるとおり大君の文を読んだ薫は、身は姉妹と二つに分けていても、心は中君も私と同じであると、薫に中君を譲ろうとする大君の考えは、薫は何回も感じてはいたが、彼が承諾しなくて大君は困って、昨夜のように入れ替わりを計画されたのであろう。然るに、その計画の甲斐もなく、彼が中君に冷淡であるとすれば、それは大君に取っては気の毒なことであり、薫は情がない男と大君が思い、大君を得ようとする彼の始めの考えが、とても成就しないであろう。何かと薫の事を大君に取次ぎする弁御許が、もしも中君に思いが移るならば、彼の行動が軽々しい事であり、出家を志望していた自分であるのに、大君に懸想し初めたような事だけでも彼には後悔の種であり、この世を捨てて出家しようという、これ程の決心である自分には、懸想などと言う最も俗人にまみれたことは出来ることではないと、外聞悪く自然に思われてくる、その上にまだ、世間にありふれた好色者の真似をして、靡くあてもない大君を、いつまでも追いまわすとすれば、そのような事は、全く、世人の笑い者で、古歌の「堀江漕ぐ棚なし小舟漕ぎ返り同じ人にや恋ひ渡りなむ」(堀江を漕いで行く棚なし小舟のように、私は何度も同じ人のもとに行ったり来たりして恋つづけるのだろうか)「舟棚のない小舟」のようであろうと、薫は夜通し考えて夜明けを迎えた。 薫は有明の空が次第に明るくなっていく頃に兵部卿匂宮を訪問した。薫の母の三宮の三条宮が焼けた後、彼は六条院の貴族や武家の邸宅内で子弟に与えられる部屋である曹司に住んでいた。薫はそれで同じように六条院の曹司に住んでいる匂宮とは近くになり、匂宮を毎日のように訪ねていたが、匂宮も宇治の様子が聞けるので薫の訪問を喜んで迎えていた。匂宮の住いは、雑用に気の散る事がなく、理想的で、前の前栽は他の処とは違って、同じような花の姿も木や花草が風に靡く様子も特別に趣きあるように見えて、そこに流れる遣り水に澄んだ月の影が映るのが、絵に描かれたように見え、薫が思ったとおり匂宮は起床していた。風と共に薫ってくる彼独特の匂いがはっきりと匂宮が感じると、薫だなと直衣をきちんとして身なり乱れをただして勾欄に出てきた。薫は曹司の前の階段を昇りきらずに途中でそのままそこに止まっているので、匂宮は上に上がれとも言わずに簀子の勾欄に寄りかかり世間話などを、互に話しあう。
宇治のことを何かの機会には、匂宮は思い出して、薫の仲介の誠意が足らないと、あれこれと薫のことを不愉快に思うこともある。薫にとって今はそんなことは無理なことで、彼自身大君のことで頭が一杯で匂宮のことまで手が回らないと、思いながらも、匂宮に中君が靡くようなって欲しい、そうすると中君が匂宮に靡けば、大君が自分の替わりに中君をと、言うこともなくなり、大君は自分に靡くであろうということになるから、当然、匂宮がとるべき方法などを今日はいつもより真剣に語るのである。
明け方の霧が一面に漂い空の様子が冷ややかで月は霧に遮られて光が届かず、前栽の木の下は暗く、匂宮は宇治の山荘の寂しさを思い出しているのであろうか、
「数日中に必ず我を宇治に連れて行くように」 と言い出す匂宮が薫は煩わしいので、
女郎花咲ける大野をふせぎつつ
心せばくやしめを結ふらむ
(御身は、女郎花の咲いていた大きな野に対して、人の立ち入るのを防ぎながら、度量狭く、しめ縄を張っているのであろう)
匂宮は自分を宇治へ連れて行かない薫に冗談を言う。
霧深き朝の原の女郎花
心を寄せて見る人ぞ見る
(霧が深くとざしていて、容易に見る事のできない女郎花の姫君達は、愛情を寄せて見る人が、いかにも逢うのである)
心も寄せない者が、見る事ができようか、できない」
と匂宮を羨ましくさせると、
「やかましいやい」
と匂宮は腹を立ててしまった。数年来、匂宮は中君を取り持てと、やかましく薫に言うが、かつては中君の容姿を、薫はどんなであろうかと気にしていたが、昨夜変なことから逢って見ると容貌なども、大君に劣ると、馬鹿には出来ないほどで、自然に、こっちから推量する気だてが、近寄って見た時、見劣りするような事でもあろうかと、前にはずっと不安に思っていたけれども、中君には男を失望させるような欠点はないと、思うと姉の大君が、中君を内々に、薫に自分の身代りとして譲ろうと考える気持ちが、断ることはその好意に背くような気がして、薫は自分が情知らずの男と思う。そうかと言って、そうすればそうで、大君への自分の懸想を中君に思い代える事はできまいと思い、中君を匂宮に譲り申して、大君と匂宮の、どちらの恨みをも負うまいと薫は思うのであった。そのような薫が内密に、色々と宇治の二人の姫の行く末を考えているとも、匂宮は知らなくて、薫が宇治へ案内しないのが、肝の小さい奴めと、思っているのも薫は可笑しいが、その気持ちを隠して、匂宮に、
「いつものように、軽々しい浮気心で中君に接しなさるのは止めにしてください」
と、中君の親の立場になって、匂宮に言う。
「まあここでは何と言われてもよい、どうなるかは結果を見なさい。私には、これ程気に入っている懸想は、まだ無いのである」
と、匂宮は真面目に薫に言うので、
「宇治の姫君達の心などには、貴方の望むような、きっと靡くに相違ないという考えの浅いものは全くないようです。だから私の仲立ちはとても難しい仕事であります」
と薫は、匂宮が宇治の山荘を訪ねる用意の一番である人に気づかれないよう、などを事細かに匂宮に注意をする。
八月二十八日は、彼岸は、初日も果ての日も、吉日となっているので、薫はこっそりと用意して匂宮を誘い出した。匂宮の母である明石中宮などの耳に入れば、匂宮の忍び歩きを咎められることは分かっているので、そのことを最も恐れていた匂宮の気持ちを察して、さりげなく匂宮を連れて行こうと考える薫にも苦労があった。渡船で川を渡るのは人目につくので、面倒なことが起こると、対岸の立派なタ霧の別荘も借りないで、川のこっちの近いところにある、薫の荘園の人の家に、目立たぬようにして、車から匂宮を下し、そこで待たせて、薫一人が宇治へ向かった。
宇治の山荘の周りはこれと言って警戒する様子もなく、鬘鬚の宿直人は、一寸出て戸外を廻り歩くが、それにも、匂宮を同伴したことを知らせたくないと、思い無言で山荘に入る、いつものように女房達が
「薫中納言殿が、御越しなされました」
と言って互に持てなしてくれる。姫君は薫の訪問を、いい加減にしてくれと思うが、薫の気持ちが中君に移るようにと、薫にそれとなく言ってあるので薫が来訪しても、自分は安心であると、大君は、思っていた。
中君は薫の思う相手は、かつては自分とは違って大君なのであったから、来訪されても安心であると、思いながら、先の夜姉と間違って自分の処に来た薫が、その後以前のように、姉君にも、親しく思いなさらなくて、用心して自然に間隔を開けているようである。だから対面をしなくて、何やかやと、大君に、取次の口上で消息ぱかり申されるので、今後、二人の間はどうなるであろうかと、女房達もつらくてやりきれなく思っている。
作品名:私の読む「源氏物語」ー71-総角ー2 作家名:陽高慈雨