私の読む「源氏物語」ー70-総角
といって、大君と中君が箏と琵琶を弾いておられたのをかって聞いた月夜のことから始めて、その後の来訪度に思う心が次第に高まってきて我慢し切れなくなったと、大君を思う心が次第に胸の内に燃え上がってきたことを話すと、大君はそんな薫の気持ちなんかを考えずに、恥ずかしいことをなさると、大君は薫の取った行動をいやらしく思い、薫が、自分に懸想しているくせに、表面は真面目な顔をしてと大君は聞いていた。
大君は傍らにある三尺の短い几帳を引き寄せて佛の方に立てて、自分と仏の間を仕切って、少し脇息に俯いて体を休めた。仏前に焚く香の匂いが気持ちよく漂い、樒が際立って薫っているにつけても、薫は人との交際よりは佛を大切に信じる気持なので、漂っている名香や樒の香が大君と関係すのに何となく後ろめたく邪魔で、折角抱きしめもう一歩踏み込めば大君の体は我がものになると言うところで信仰心が現れ、墨染の衣を纏っている大君と契るのは、喪中の最中であるにもかかわらず、なんか焦って女を求めているように軽々しい男と取られるのは心外であるし、最初に自分が考えたこととは、当然、違うはずであるから、一周忌も終り、こんな喪中の慎みのないような時に事を起こさなくとも喪が明ければたとい強情に拒絶があっても、今のようにはきつくなく折れて出なされるであろうから、その折に契ろうと、薫は焦る気持ちを落ちつけるように思い返していた。薫にあの玉鬘を無理矢理落とした鬚黒のような強引さが有れば今後の展開はまた変わったかも知れない。
秋の夜の気配が寂しさが、山荘のような山里でなくとも、自然に深くしみじみと心をひかれる感じがするのであるが、喪中の山荘は峰から吹き下ろしてくる風や、垣根の虫の音も心細く聞いて過ごさねばならない。薫の世間話に時々相づちを打っている大君の姿が、なんとなく感じがよいのであった。寝坊している女房達は、二人はうまく出来ていると思いこみ、邪魔しないようにと奥に入ってしまった。
大君はかつて父宮から言われた訓戒の言葉、
「浮気者に靡くような軽率な考などを、決してしなさるなよ。よくよくの立派な縁でなければ男の綺麗な言葉に惑わされこの山荘を出て行くようなことはしないようになさい。ただもしも意に適う男がなければ、姫達は人と違った親王の身であり、又、宿命が人とは別なものを背負っている身であると、敢えて覚悟して、この宇治で生涯を送ろうと決心してください」
思い出すときに、仰せられた通りなる程、生き長らえていると、思いがけなくこのような有ってはならない出来事に遭遇するものであるなと、何となく悲しくなり宇治川の流れの音に添うように涙が流れ出るような気がした。
一夜薫に抱き留められ一時は体を許さなければならないかと覚悟を決め大君、薫の自制によって何となく体の関係は免れて語り明かしたのであるが、何という事もなく夜は明け始めた。
薫の供の者は起きだして主人に起床を知らせるかのようにわざとらしい咳ばらいをし、馬どもが噺く音も旅の宿の朝の様子を人が語るのを聞いたことを思い出し、さぞかしこのようなことを言ったのであろうと思うのであった。暁の光が見える方向から障子を薫は開けていき、明け行く空の様子を大君と並んで空を眺めていた。
大君も少し廂の間から簀子の方へいざり出て、
廂の間から軒はすぐ近くにあるので、軒のつるしのぶ草の露がようやく朝日に照らされて光っていくのが眺められた。二人の空を眺める姿は、揃って優艶な見事なものであった。
「何という煩わしいこともなくて、このように月や花を貴女と同じ気持ちで楽しみ、無常な世の中を互いに話し合って一緒に過ごしていきたい」
と薫はやさしく親しみある気持ちで大君に話しかけると、夜もやっと明けて明るくなり、大君の心は薫に襲われるという怖さも収まって、「こんなに、面と向きあわず、きまり悪くないように几帳か簾垂などの物を隔ててなら私も何のわだかまりもなく、更にお話が出来ましょうに」
と答える。空も明るくなって、塒より飛び立つ鳥たちが羽を羽ばたかせる音が山荘近くに聞こえた。夜のまだ深い晨朝の鐘の音がかすかに聞こえてきた。晨朝は午前六時の寺の勤行の時間である。大君は、
「せめてまだ、ほの暗い今の中にでも、御帰り下さい。夜が明けてしまったならば、大変見苦しいから」
と薫に非常に、恥ずかしそうに思っているのである。言われた薫は、
「後朝らしいように、朝露を分けて帰る事もできないでしょう。他人は、私達の仲を、どんなに想像するでしょうか,実事なしとは考えませんね。だから、世間の夫婦のようにして、表面は私を何も考えずに夫として扱い、そうして、実際は、全く夫婦関係がない潔白で、今後も私を、清らかな関係で応対してください。私は貴女に無理押しする気持は、ありませんから、そのように信じてください。私のこれ程貴女を一途に思いつめている心を思いやる気持ちが貴女にはないことが、何としても合点がいきません」 と言って山荘から出て行く気配はない。
このまま薫が居座るのは見苦しいことであると大君は思い、
「これからは、貴方のおっしゃるとおりに致しましょう。だから今朝は私の言うことに従って下さいませ」
どうしようもない駄々っ子みたいと、大君は思うって言うので、
「ああ、つらいことだ。「まだ知らぬ暁起きの別れには道さへ惑ふ物にぞありける」恋する人の嘆く暁の別れよ。暁の別れは、まだ経験がない事なので、いやあ、なるほど古歌の通り帰り道は道に迷うことであろう」
と薫は溜息をつきながら、鶏は何処にいるのかなあかすかに鳴き声が聞こえるがと、京を思い出して、
山里のあはれ知らるる声々に
とりあつめたる朝ぼらけかな
(山里の朝の雰囲気は、自然に聞こえてくる色々の声、峰の嵐・籬の虫・群鳥・鐘鶏等を聞くと、悲しさ寂しさを取り集めた暁であるなあ)
大君のお返し、
鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
世の憂きことは訪ね来にけり
(ここは鳥の音も聞えない閑寂な山里と、かつては思ってはいたが、外の世界である世間のつらい情ない事まで、私を尋ねてこの山荘にまで尋ねてくるのである)
作品名:私の読む「源氏物語」ー70-総角 作家名:陽高慈雨