私の読む「源氏物語」ー69-椎本ー2
と女房達が姫に言うのである。大君の気持ちにも先ほどああは言ったが、だんだんと心が落ち着いてきて薫の色々な親切な心遣いを考え、父宮存命中の昔の交誼で今でも変らずにこの遠い宇治の野山をかき分けてきてくださる薫の志を理解していた。大君は少し薫の方へいざり寄った。薫は姫達の悲しみに暮れていることや、父上の八宮が姫達のことを、亡くなる前に薫に遺言し自分も堅く約束した事などを、事細かにやさしく話し、しかも気の強い男臭いようには薫は見えないので女はこのような男もまた気味悪く警戒するのであるが、薫にはそのような気配もないが、初めて薫に声をかけてしまい、自分が薫を、何となく頼みにしていた今までを、(けうとく、すゞろはしく)鬱陶しくはしたないことはないけれども、父宮が薫に頼まれた事が心苦しいし、気が引けるけれども、薫に声細くほんわかと之までの礼を告げるのが、その前に女房を通して「父を亡くした悲嘆を諦めようとしても、その方法のない夢ばかりを見て、どうしても迷ってしまいます」などの言葉の通り姫達は悲嘆のために、万事に気ぬけしてしまったようだと、薫は察して、可哀想なお方達であると大君の声を聞いていた。喪中のため黒い惟子の几帳の隙間から見える心に苦しみを抱えた姫君達の姿が、まして、日常生活が様子や、又かつて初めて山荘を訪れた日に、垣間見た明げ方の暗さ、撥で月を招いた中君の様子などが、思い出されて、薫は、
色変はる浅茅を見ても墨染に
やつるる袖を思ひこそやれ
(秋の末になって色の変る浅茅を見ても、墨染の喪服姿にやつれている貴女方の袖を、涙のために、色が変わってしまったであろうと想像しております)
と独り言のように詠うと
色変はる袖をば露の宿りにて
わが身ぞさらに置き所なき
(色が薄墨色に変っている喪服の袖を、私は悲しい涙の露の宿にするので、私自らの身の置き所が、今更、別にありませぬ。身の置き所もなく、悲嘆に堪えない)
ほぐれる糸は」
大君は古歌の「藤衣はつるゝ糸は君こふる涙の玉の緒とやなるらむ」この歌を言いたかったのであるが、後半は言わなかった。本当に今の苦しみに耐えていくことが出来そうにもない気配を薫に見せて、奥に入ってしまった。引き留めるような様子でもないので、薫はただ可哀想にという思いが続くのであった。弁御許がどうしてかとんでもない内裏として薫の前に現れて今のこと昔のことなどを混ぜて悲しい話ばかりをするのである。父柏木と母の三宮情事という世にも稀な驚き呆れる事実を知る生き証人であるこの老女であるから、こんなに醜い老いぼれをと言って薫は見捨てることは出来ないで、懐かしく昔話を聞いていた。薫は、
「まだ幼いときに父の源氏と別れたので、この世というものは本当に悲しいものであると、思っていましたので、成人していくにつれて、官位や世間の人から信頼されることや、栄華なんかは眼中になくなって、専ら、このように、静かな宇治の御住居などで、八宮にお会いして、御存命中大変親しくしていただきました、その宮をこのようにあっけなくお別れしてしまい、
私は心底この世は無常の世であることを、思い知らされましたけれども、父宮に先立たれて後に残された姫君の事などを、私は生き長らえて八宮から承った御遺言に背かず御世話したいのです。人は私を好色な男と思うであろうが、そのようなことは考えてもいません。というのはそなたから、私が知り得なかった過去のことを色々と聞かせて貰ったからです。父や母の過去のことを聞いていよいよ私はこの世で、私の存在していた跡を留めたいからです」
と涙を流して語る薫ので、彼以上に聞いていた弁御許は泣いていた。弁御許は薫にそれ以上に語ることが出来ず、薫の決心は、彼女が語った薫の出生の秘密で、自分の実の父と知った柏木の母三宮に対する行動が原因だと言うことを知り、御許は古いこと故長年にわたって忘れてしまっていたことが、八宮を失った悲嘆の上に更に重なるように薫に語ることとなり、泣き崩れていた。
弁御許女房の母は、かって柏木の乳母であった。父親はこの八宮の亡き母親の叔父で、左中弁の位で亡くなっていた。
だから二人の姫には母の従妹になる。弁御許は長い間、遠国筑紫をあてもなく流浪して姫達の母である従妹が死んで後に、柏木邸とも縁遠くなり、この八宮が御許が京に帰ったことを聞いて御許を探して、引き取ってくれた。弁御許はさほど上品ではないが宮仕えには慣れているので、邸内の色々なことに支障がないと宮は考えて、姫達の世話係にしたのである。昔の、柏木と三宮との事件は御許にとっては、京に帰ってから長い間、御側にいて、朝タ御世話して親しくなり、隠し事がなく打ち解けた大事な主人の姫達にも今後の注意することにも参考になろうかと一言伝えておかねばとは思うが、胸にしまっておいた御許女房である。しかし薫は、老人という者は誰も問うてもいないのに、余計な事を語るのはこれは老人の性格であるから一様に広く誰にもかれにも、柏木と母三宮の一件を軽々しく言い触らさなくても、姫達には已に知れていることだろうと、推測するのであるが、 弁御許は、姫君達に柏木と女三宮の一件を、まだ語っていない。だが、薫は、既に話してあると思っているので、姫達が誰かと結婚しては、柏木と母三宮との事を、夫に語るであろう、それは柏木や母三宮のためには困ったことである、だから姫君達を自分のものにしなければならないと言う薫の気持ちに変化は柏木と母三宮のことからである。
そのようなことでこの山荘で泊まることは若い姫が居るところでは落着かない気持がするので、薫は帰ることにするが、帰るに間際にも、八宮が「これが最後の対面になろう」など、仰せになったことに、どうして、そんな、これが最後の対面の事が、あろうかと、今後の事を当てにし、しかもそのまま二度と八宮に会うことが出来なかった。秋は変っていた。八宮他界は、去年の秋八月、今年も今は秋九月八宮が亡くなられてからまだ一年であるのに、宮が行かれた先は分からず、人生とは張りあいのない、あっけないものである。八宮の存命中は、世間一般のような装飾は特にすることなく、山荘は質素な佇まいであったが、山荘内を綺麗に掃き清め、邸の内外を、深い落ち着きのある風にして生活していた山荘も宮の亡くなられた後は、法師(大徳)達が出入し、屏風や障子(襖)などであっちとこっちとを仕切り、念誦の道具は生前とは変わらないが、法師達は姫に、
「佛はみな山寺に移すことにいたします」
と言うのを薫が聞いて、佛が移ることになれば、仏もなくその上、このような僧達の姿などまでがこの山荘に、もしも来なくなってしまうならば、その時はここに居残って、姫達の面倒を見よう、と考えたのであるが胸痛いことであった。供の者が、
「もう日が暮れてしまいました」
薫は物思いを、中途でやめて、立ちあがると、霞んだような夜空を雁が鳴いて渡っていった。
秋霧の晴れぬ雲居にいとどしく
この世をかりと言ひ知らすらむ
(秋霧の晴れない大空に、かりかりと鳴いて渡る雁は、この世を、仮の世であると、(八宮の他界後、多くの日数も経ないのに)どうして、喧しく言うのであろうか)
作品名:私の読む「源氏物語」ー69-椎本ー2 作家名:陽高慈雨