私の読む「源氏物語」ー67-橋姫
「大変奇妙な住み方で八宮は過ごしています、世を捨てたと云っても良いでしょうが、当然、訪問なさるに違いない縁故の方達まで、次第に訪問する方がおられなくなり、この有様です。貴方様の有り難いお気持ちは、私のような端の方の者にも、恐縮する程まで伝わってきます。姫達は若いので、貴方のお気持ちは充分と分かっているのですが、恥じらいもありましょう、直接お話しすることが出来ないのでしょう」
と、遠慮無く馴れ馴れしく話すのを、薫は何となく憎たらしいが、弁御許の態度は、それ相当の人がいないこの山荘に、由緒ある人らしくて、上品な声であるから、
「露に濡れて旅を重ねたら、私の心も御わか"りであろうと、言ったのに、大君は、何事も思い知らぬ云々と、答えられたその答に、私は、全く力を落としていたところへ、貴女の話により嬉しいと思っておられる大君の事が理解できて本当に助かった。なる程、若いから恥ずかしいと言った貴女の言葉で姫君達が私のことを御わかりなされることは、私にはこの上なく嬉しいことです」
と言って物に寄りかかっている薫を、几帳の隅から見ている弁御許は、夜が明けてやっと物の色が見分けがつくようになり、なる程薫様は簡素な姿と見られる狩衣姿で、霧に濡れて、湿っている時には薫物はよく匂うので、薫の体臭が特に際だって匂うので、この世の匂いとは思われないと、不気味なほど周囲に香りが漂うのであった。
この弁女房は、薫の生い立ちなんかを知っているので涙をながして泣いてしまった。
「出過ぎたことを申すと貴方様からお叱りを受けrかもと、申したい事も言わずに我慢していましたけれども、柏木様と貴方の母上の三宮入道様との悲しい恋の昔話を、何かの機会に貴方様にお伝えし、少しでも昔のことをそれとなくお知りになっていただければと、毎日の念誦にそのことを佛に祈っていた甲斐があってでしょうか、このようにお目通りできて嬉しい機会でありますが、お話しする前に、涙に目の前が暗くなり、何が何やら分らず、どのようにお伝えしようかと、お話が出来ないのであります」
動揺してがたがたと震えている老女房を見て薫は可哀想にと、思うのであった。おおかたの歳を取った人は涙もろくなると、聞いたり見たりしていたが、これほど思い入れが烈しいのは初めてのことで、何か事情があるのではと、
「ここ宇治へ訪問するのも何回もあるが、貴女のように人情を知りつくされた人がいないので、往復する道にただ一人露で濡れて参るのであるが、今回貴女に会えて本当に嬉しく思います。どうか昔話を全部語ってください」
「このような機会が二度とありますまいから、もしあったとしてもいつまでこの身が生きていましょうか、ですから、こういう古いことを知っている老人が居ることを、貴方は覚えておいてくださいませ。さて、三条の宮である貴方の母上三宮入道の許に仕えていました小侍従なる女房が、亡くなりましたことを聞きました。その昔仲良くしていた同じ年頃の女房も、もう殆ど亡くなられた頃の晩年に、私は遠い筑紫の田舎から、縁故を手づるに都に帰ってきまして、五六年になります、そうしてこの八宮方にお世話になっております。
最近、藤大納言と言われる按察大納言で、この方の兄上が右衛門の督で已に亡くなられてしまうた方柏木様をば、何かのことで、あの君がという噂話を聞いてこられたことがありました。その方が亡くなられてまだあまり長くないように自分は感じていると大納言は云われまだ悲しくて衣の袖が乾く暇もないと言っておられました。亡くなられた年月を数えてみると二十二年、貴方の御誕生をかぞえてみますと二十二歳年数が合うのは夢のようである。
亡くなられた柏木権大納言の乳母であったのは私の母でありました。私も朝に夕にと柏木様にお仕えいたしまして、人の数にも入らないようなつまらない女房でありましたが、柏木様が、人には知らたくはないが、自分の心一つに余るのであった秘密を、時々私に秘密の端端を私に話されるのを、柏木様が今はの際に私を病床に呼び寄せられて、私に少し、遺言なされた中に、貴方様にどうしてもお伝えしておかねばならないことが御座いますが、今申すわけには参りません。このように申しあげますからには、この後のこともお聞きになりたいことであるならば、後ほど落ち着いたときに全部をお話しいたしましょう。この屋の若い女房達も私のことを、言わなくともよいことを言う出しゃばり者と、互いに言い合っているようですが、尤もなことです」
出過ぎた多弁も、さすがにそこまでであった。
不思議な、薫が柏木に関係があるような、弁御許の、その話を、夢物語とか、巫女のような者が、神がかりして語るような、珍しいことであると、薫は思わずにはいられないことであるが、しみじみと心から事あるごとにふと思い続けている不審な聞きたいと思っている、柏木と自分との関係のことを弁御許が言い残しを、言ってくれれば、薫は是非聞きたいけれども、人目も多いことであるし、いきなり古い昔の話に関わって夜を明かしてしまうのも。この山荘に泊まったように思われて変な噂も立つであろうから、
「どうと言って弁御許の話に見当のつく点は私にはありませんが、自分の一身上の昔の話と聞きまと、私は何となしに身に感ずることがありますから、又のゆっくりとした日にということであるならばこの残りを必ずお聞かせ下さい。
霧が次第に晴れていくとこの格好の悪い濡れそびれた忍び姿を、きつと見咎められるに違いないから長くいたい気持ではありますが、早々にここを引き上げるのは心残りです」
と言って薫は立ち上がった。その時八宮が修行している寺の鐘がかすかに聞こえ、霧はまだ深かった。寺の方の峰の八重雲は、父八宮を思いやる思いを邪魔する事が多く、姫達を始めとしてこの山荘に集まる人達が寂しいであろうと、姫は可哀想である、この淋しい山荘でどんな思いを心に刻まれることであろう。引っ込みがちで晴れ晴れとしたところがないのもこの霧のためであろう。薫は思った。
あさぼらけ家路も見えず尋ね来し
槙の尾山は霧こめてけり
(訪問した甲斐もなく、姫君は逢って下さらず、致し方なく帰ろうとすれば、夜のほの明けに京へ帰る路までも見られない程に、昨日、訪問して来た槙の尾の山は、霧が立ち籠めてしまっている)
心細いことである」
と心を残してまたもとの席に帰って、休んでいる薫を、優雅な姿として都人の中にも定評のある人なのであるから、まして山荘の人たちの目はどれほど驚かされたかもしれない。大君の返しの歌を若い女房が何となく伝えるのが恥ずかしいのであるが、大君はいつものようにきまり悪そうにして、
雲のゐる峰のかけ路を秋霧の
いとど隔つるころにもあるかな
(雲が立ち籠めている峰の、危い険しい路であるのに、秋霧が、更に一層隔てている、佗しい時節でありまするからなあ)
大君が「雲のゐる峰」と、父八宮との隔てに溜息をつく大君の御子は、本当に薫の心を引いた。この山荘付近は何という風情もないところであり、姫達には気の毒なことが沢山あると見て薫は帰りにくかったが、明るくなって行くに従ってまともに顔を見られることもあろうからと、
作品名:私の読む「源氏物語」ー67-橋姫 作家名:陽高慈雨