私の読む「源氏物語」ー66-竹河-2
この度の中君の尚侍としての参内は、明石中宮のことを考えてのことである。もし夫鬚黒が存命であれば、帝に后・女御がおられても、中君には決して圧力を掛けるようなことは無かったであろうから、このように気を遣うこともないと、玉鬘は悔やむのであった。
姉の大君はなかなかの美人で聡明であると、帝が聞かれて、入内を希望しておられたにもかかわらず、玉鬘が院参に替えてしまったことを、帝は納得しかねているようであるが、尚侍として入内した中君は、物馴れた巧者で、気転がきき、態度も奥ゆかしく身嗜みをして仕事に励んでいた。
このように娘のことも片づいたので、玉鬘はいよいよこの辺で出家をしようと考えるのであるが、長男の右近中将は、
「あちらに姉、こちらに妹と、姉妹の世話を焼くことが多いときに出家なさるのは、とても落ち着いて仏道修行が出来ないのではありませんか」
「もう少し姉や妹がこれでもう安心であると見極めてからでも」
中弁が言う
「二人が落ち着いてから、気のもめる事がなく、一途に、仏道を御勤めなされては」
と中将・弁君二人の息子が言うので玉鬘は、考えた末に出家のことを延期して、玉鬘は時々こっそりと内裏の尚侍中君の許に上がることもあり、冷泉院には、院がまだ玉鬘への思いを持っていて、用事で当然参内すべき場合でも行くことはしなかった。冷泉院に背いて鬚黒に嫁した、その昔を思い出して、あのように冷泉院の気持ちに背いた事が、申し訳なく、そのお詫びのようにして上の娘大君を院参させ、その上に自分までもが冷泉院の懸想にのって、年甲斐もなく浮いた評判が世間に知れ渡ったならば、それこそ全く世間に顔向けができず見苦しいことである。玉鬘はそのように思っているのであるが、其れは其れとして冷泉院の自分への懸想心で院に参内しないと言うことは大君にも話してないことであるので大君が、私は昔から父の鬚黒に可愛がられ、母は妹の中君を、桜の木を争ったときにも、淋しいときにも中君に母は気持ちを寄せていた、そのため私を軽く扱われた、と大君は母玉鬘が院へ参内しないことを恨んでいた。冷泉院も大君よりも玉鬘が来訪しないことを辛く思っていた。
冷泉院は、
「歳を取った老人の自分のところになんか、大君をよこして、玉鬘は尋ねてこないことは私をもう見放したのか、それも道理のこと」
と大君に話し、大君に可哀想にと言っていた。 幾年かして、大君は、又、男子を生んだ。中宮や女御やその外後宮などに宮仕する女房が沢山いるのに、皇子誕生のような事がなくて、何年も過ぎているのに、大君は並の運ではないと、世間は驚くが、大君は冷泉との夜の営みが特別に好きであったのだと思う。これも冷泉院の指導が良かったのであろうか。院は世間の人よりも珍しいことと喜んでいた。院はこの皇子をこよなく可愛がった。冷泉院が帝であったならば本当に皇子誕生は甲斐があったのであったが。今は退位した身であるので、残念なことと悔しがっていた。弘徽殿の生んだ一宮が今まではただ一人の子供であったので、この上なく可愛がっていたが、今は姫宮と男宮と可愛らしい子供が三人授かって、院は珍しいこともあるものだと、男宮を生んだ大君を特別に大事にするのを、弘徽殿女御は快くは思わなかった。
そんなわけで何やかやにつけて、腹立たしく曲りくねったわだかまりが起りなどしたので、自然と大君と弘徽殿の仲に隔たりが出てきた。一般世間でも本妻と側妻との関係は最初から、本妻方に殆どの人が心を寄せるものであるから、冷泉院の女達も上下を問わず実家が藤氏という立派で、冷泉院の女御となって年数も長い弘徽殿女御が、何事も正しいと、事あるごとに大君を無視するのを大君の兄弟である右近中将や中弁が、
「それ御覧なさいませ母君」
「私どもは悪いことを母君には申しあげてはいませんでしたでしょう」
と玉鬘に一層強く言うので、玉鬘も気分が穏やかでなく、
「こういう宮仕などしなくて、暢気で人が見ても良い暮らしをしていると、いう人は多いでしょう。だから、この上ない身の幸運がなくては、宮仕の事は、希望してはならない事なのであったのですねえ」
と、今は祖母になった玉鬘は嘆くのであった。
かつて、大君、今は冷泉院の御息所に、気のあり懸想文を送ったりなどをした君だち、蔵人少将や薫を始めその他の者は、今や、人前に出しても立派に、次から次へとそれぞれ昇進して、今であれば大君の婿とし仮に玉鬘が許したとしても、なんの遜色もない地位となっていた。その中でも源侍従薫は、若くて地位も低く繊細である、というひょうばんであったが、今は十九歳で宰相中将となり匂宮と共に
「匂宮よ薫君よ」
うるさいほど世間の評判となっていた。実際のところ、薫は、世に持てはやされるように、人柄が重々しくて、奥ゆかしく成長していた。そのような薫であるが、高貴な親王や大臣達の娘を薫の嫁にと望むのであるが、薫が一向に承知しないのを、玉鬘は、
「大君を望んだ当時は、薫も官位は低いし若くて頼りないようであったけれども、歳と共に立派になられた」
と言っていた。夕霧の息子の蔵人少将は、今は三位の中将と昇任して世間でも評判の人となっていた。
「(今は、世の信望がある上に容姿までが、あの当時から、理想的であった。惜しい事をした」 と、玉鬘の許に仕える女房の中で多少浮気心のある者は関係しておけばよかったと、思いながら、
「面倒くさそうな院の女として仕えるよりも、三位中将に大君を許された方が良かった」
と言う者もあり、玉鬘の考え違いが気の毒に見えた。話の中心の三位中将は未だに大君が忘れられず、玉鬘を面白く思っていないのであったが、竹河左大臣と呼ばれていた人の娘を妻としているのであるが、心の底から愛情を注ぐことはなかった。
「東路の道の果てなる常陸帯のかごとばかりもあはんとぞ思ふ」
(東路の道の果てにある常陸国の常陸帯の「かこ」ではないが、かごとばかり──ほんのすこしばかりでも、逢おうと思うことだ)
と中将は字の練習にも口ぐせのように言うのも、大君に会いたくてたまらないのである。御息所と呼ばれる大君は、院中の女房達の不仲が里帰りが多くなった原因であった。玉鬘が思っていたとおりにはいかなかった大君の様子に、悔しくてたまらなかった。内裏に入内して尚侍となった中君は姉の御息所は不運になったのに、それと反対に、花やかに、気がねもなく気楽に振舞いともかく、風情があり、他の人達からも奥ゆかしいと信望が厚かった。
蔵人の舅に当たる竹河左大臣が亡くなり、右大臣の夕霧が左大臣となった。藤大納言の按察大納言で左大将を兼任していた亡き柏木の弟が、右大臣に、その他の一族の位の人も次々に昇任して、薫中将は中納言に、三位中将の君は宰相即ち参議になり、そうして、御礼の拝賀をした人達は、この夕霧と致仕大臣(昔の頭中将)の一族以外に人はいないという状態であった。薫中納言の昇任御礼に先の尚侍であった玉鬘の許に参上した。薫は玉鬘邸の寝殿の正面の庭で、玉鬘に昇任御礼の拝舞を舞った。玉鬘は薫と対面して、
作品名:私の読む「源氏物語」ー66-竹河-2 作家名:陽高慈雨