私の読む「源氏物語」ー65-竹河
折りも良く丁度そのような時に蔵人少将が侍従の君を訪ねて部屋に来たのであるが、丁度中将が侍従君を連れて外出したところであったので、玉鬘邸内は大体が少人数であるから少将は、廊下の戸の開いたところから中を覗くと姫二人が碁を夢中になって戦っているところであった。少将はそれを見て、こんなに嬉しい機会に会うなんて、たとえば、仏の出現に会うようなもの、と喜ぶのであるが、喜ぶべきか否か、どうなるやら、この先は分からない。
夕暮れの霞がかかったときに、見分けが付きにくいものであるが、目をこらしてじっと見ると、表着は桜色で、姉か妹かの色の違いがついて、意中の人である大君であると、少将は見分ける事ができた。なる程、古今集に「桜色に衣は深く染めて着む花の散りなむ後の形見に」(桜色に着物を深く染めて着よう。花が散ってしまった後の思い出の品となるように)と、紀有朋の歌のように、花が散ってしまった後の思い出の品となるように、桜は散っても、形見として、私の願いのこの大君を見ることが出来た。大君は美しい色つやが綺麗な姫であると、少将は見ていたのであるが、冷泉院に院参するという少将の願いとは違った状態になってしまうことには、こうして垣間見たからには一段と寂しさが増してきたのであった。若い女房達が遠慮無く打ち解けて騒いでいる様子が、夕日の照りに映えて楽しそうに見えた。中君の右方が勝利した。
「高麗の歓声は恐ろしいほどあるぞ」
と中君応援の女房が叫ぶ。勝負の時には、高麗楽は右、唐楽は左となっている。今、右方が勝った。右は勝方であるので女房が高麗楽と言った。競馬などの勝負の時に、このような乱声が奏せられるのであるが、今は碁であるけれども、女房達がはしゃいで、戯れに高麗の乱声と言ったのである。
右方、中君の女房達はしゃぎ廻って
「 右の中君に、木が心を寄せて、中君の、西の御部屋の、御前の庭に近く寄ってござる木なのに」
「然るにそれを左の大君の物にしたので、長い年月の間の御争いが」
「こういう右に心を寄せた木を左のものとした事であるから」
と右方の女房達は木を西(中君)の方のものにした事を気持良さそうに、中君を景気づけるのである。この様子は何事かははっきりとしないのであるが、少将は面白い光景だと、言葉を掛けたいが、皆が、うち解けて気を許し楽しんでいるときに、声を掛けるのも、その場を見れない奴だと、思って、玉鬘邸を去ろうとするが、このような機会は二度と無いであろうと、庭の影から姫達を見続けた。
姫達はいつもの通りに花の争いをしながら過ごしていたが、風がひどく強く吹いたある日の夕方に、花が散っていくのが気になるので、先日の碁に負けた大君は、
桜ゆゑ風に心の騒ぐかな
思ひぐまなき花と見る見る
(散るかと桜の花のせいで、風に心配して気をもみまするよ。賭物として右方に寄った花であるから、思いやりのない冷淡な花と見ながらも)
と、後撰和歌集の俊蔭の歌「いづ方に立ち隠れつつ見よとてか思ひぐまなく人のなりゆく」を思い浮かべて詠う。大君の宰相の女房は、
咲くと見てかつは散りぬる花なれば
負くるを深き恨みともせず
(咲くと見ていると、一方では散ってしまう桜の花であるから、負けたために、賭物として取られた事を深い怨恨とはしない)
と詠って大君を援助する。この女房はさる日薫が念誦堂の前に立って玉鬘を待っているときに、「折りて見ばいとゞ匂もまさるやとすこし色めけ梅の初花」と詠って薫をからかった女房である。右方で碁に勝った中君はすかさず、
風に散ることは世の常枝ながら
移ろふ花をただにしも見じ
(花が風に散る事は、世間普通のあり触れた事で恨みもあるまいが、枝のついたまま、桜の木そっくり、私の方に移る花を、恨みもせずに平気で見る意志はありますまい)
中君付きの女房の大輔の君が、
心ありて池のみぎはに落つる花
あわとなりてもわが方に寄れ
(右方に寄る心があって池の水ぎわに散る花よ、たとい泡となっても、私の右方に寄って来いよ)
と、古今和歌集の菅野高世の「枝よりもあだに散りにし花なれば落ちても水の泡とこそなれ」をもじって詠う。右方の中君に仕える女童が丁度その時庭に降りて、桜の木の下にいて、散った花をかき集めて中君の許に持ってきて、
大空の風に散れども桜花
おのがものとぞかきつめて見る
(右にも左にも寄らない大空の風に散るけれども、右方の物であるから、その花をいかにも、自分の物として掻き集めて、熱中して見まする)
左の大君の女房なれきは
桜花匂ひあまたに散らさじと
おほふばかりの袖はありやは
(そちらの花となったのであるから、桜の花の色つやを、多方面に散らしたくないと思っても、桜を覆い包んで、上からかぶせる程の袖はありますかねえ、ないでしょう)
後撰和歌集の「大空におほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」から詠う。そうして、
「花を独占する事は料簡が狭そうに見られるようですね」
などと、悪口を言うのであった。
このようなことで月日は遠慮無く進むのであるが、姫達のこれから先のことを、歳も取るし、色々と母親の玉鬘は心配するのである。冷泉院よりは早く出仕するようにとの連絡が毎日あり、弘徽殿女御も
「貴女は、私を姉妹であるのに、他人扱いにして、私を信じないのですか。冷泉院は、私が嫉妬して貴女に話さないのではないかと、私を憎まれているようで、本当に私は苦しんでいます。遅くも早くも、院参するとお決めになったのなら、早く院参されるようにしてください」
と玉鬘に事細かに文を寄せてくる。玉鬘は、大君は、院参するような宿命であろう。弘徽殿女御が、本当に、嫉妬されるようなことがないと、仰せになるのであれば、弘徽殿女御の御気持は有り難いことであると、思うのである。院参する準備はしてあるので、大君に従う女房達の装束、その他細々した用意を急ぐのであった。
このことを聞いた蔵人少将は死にそうに苦しんで、母の雲井雁に何かと大君のことを頼み込むので、雲井雁も聞くのが嫌になり、玉鬘に文を書いた、二人も腹は違うが姉妹である。
「全く、外聞が悪く恥ずかしいことですが、それとなくお願いしたいことは、全く融通のきかない愚かしい、子どものことであります。藤原兼輔の詠う、人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな、の気持ちです。親心を察してくださって、我が子蔵人少将のことを考えてくださいませ」
と、雲井雁は気の毒そうに頼むのに、「困った事だなあ」と、玉鬘は文を読んで、溜息をつき、
作品名:私の読む「源氏物語」ー65-竹河 作家名:陽高慈雨