私の読む「源氏物語」ー65-竹河
玉鬘邸の主人で、鬚黒の三男藤侍従は、内裏とかその他まだ年賀の挨拶が残っているところがあるとかで、三条宮から帰って、丁度、自邸に、居あわせた。そこで、香木である沈香の若木で、堅くないものを材料として白木造りの隅切りの角盆の折敷二つの上に果物、杯を載せて薫の前に差し出した。
「夕霧大臣は歳を取られるに従って、故源氏に本当に良く似てこられました、薫君は源氏様に似たところがあまりないようですが、身のこなしが落ち着いて優雅なところが本当に源氏様の若い頃を思い出します。源氏様の若い盛りの頃は私は知りませんが、多分薫様のようであったことでしょう」
と玉鬘は昔を思い薫に話しかけて、涙を流していた。薫が屋敷に滞在中は勿論、帰邸した後までも残っている薫の体臭の香ばしさを、女房達は口を極めて褒めちぎっていた。
薫は玉鬘邸での綽名「堅気者」を憎たらしいことを言うと思うので、正月の二十日頃、梅の花が盛りの折りに、先日、自分が色気がないように見て取った浮気女房どもに、自分にも女を好むところを見せてやろうと、また藤侍従を訪ねた。中門から、入ろうとすると、そこに薫と同じ直衣姿の人が立っていた。その人は隠れようとしたが薫が引き留めたのであるが、それはいつもこの庭を散策している蔵人少将であった。寝殿の西表の方で、姫達が琵琶、箏、琴などを演奏するのを聞いて心が導かれて立っていたのであろう。見るからに苦しそうである。玉鬘が許さない大君に恋する事を、もしも蔵人が思っているとしたら、それはどうも問題なことである。薫はうすうす聞いていたのでそう思った。演奏が終わったので、
「さあ、案内して下され、私は、ここは全く不案内であるから」
と蔵人少将と共に寝殿西の渡殿前にある紅梅
のもとに二人で催馬楽の「梅が枝」を唄いながら歩いていると、薫の体臭の香気が梅の花の香りよりもきつく匂うので、渡殿の妻戸を押し開けて女房達が和琴を柔らかく演奏していた。女房達の弾く琴であるので、梅が枝のような呂の調子は、上手くは弾けないものであるのに、ところが女房達の演奏は薫が、これは上手い、と思うほどであるので薫も興に乗って、もう一度、折り返し梅が枝を謡うのに、それに合わせて掻き合わせる琵琶も、華やかな音色であった。
此方は趣味や風流がある毎日を送っておられるのであるなあと、心を引かれてしまったから、薫は今宵は先日よりも多少気が楽になり、つまらない冗談なども口にする。御簾の内から女房が琴を差し出した。薫と少将がお互い譲り合って触ろうとしないので、藤侍従に玉鬘が、
「亡き父上の致仕太政大臣の、演奏法に、非常によく似ていると、私はずっと前から聞いておりまするから、私はとても聞きたいのですよ。ですから今宵は是非とも薫様の演奏を、鴬の鳴く音とともに拝聴させてくださいな、どうか御弾き下され」
と薫に言われるので、薫は恥ずかしがって、爪を噛むような態度を取るべきではないと、殆んど感情を込めずに簡単に一曲を弾いたのであるが、其れでも深みのある音色であると人々は聞いていた。玉鬘は亡き父とは、自分が源氏の養女であった関係から、常に接して親しんだ父親ではなかったが、もうこの世には居られないのだと、悲しいのであるが、何かあるときに、思い出すと、今の薫の演奏は、何回か聞いた父致仕大臣の演奏の音色によく似ているので、
「何となく薫様は、私の兄の亡き柏木大納言の様子に実によく似ており、琴の音などは、まるで兄の演奏を聴いているようです」
と涙を流しているのを、歳を取った証拠の涙もろさであろうか。
蔵人少将は美声の持ち主で、催馬楽の「此殿は」の中の句「さき草」を謡う、
「この殿は むべも むべも富みけり さき草の あはれ さき草の はれ さき草の 三つば四つばの中にや 殿作りせりや 殿作りせりや」
さき草は稲のことである。
出しやばりで世話ずきの年寄りはこの場には居ないので、遠慮が無くて自然にお互の気持ちが盛り上がり、若い人達は次々と演奏するのであった。
主人の藤侍従は父親の鬚黒に似ているのであろうか、音楽の方は不得手なので、盃ばかり進めては自分は飲んでばかりいるから、薫が、
「せめて祝言の歌だけでも、謡わないのか」
と、冗談ぽく男踏歌の万春楽でも謡えと言われたので、藤侍従は、
「竹河の 橋の詰めなるや 橋の詰めなるや 花園に はれ 花園に 我をば放てや 少女たぐへて」
薫と声を揃えて謡う、彼はなかなかの美声である。玉鬘は御簾の中より薫に杯を出して酒を勧めた。
「酒に酔いますと、心中に隠している事も包んで置く事ができなくて、間違った事をするものであると、聞いております。ところでこのように私に杯を差し出して、私を酔わせどのようにされるのですか」
と言って薫はすぐには杯を受けなかった。玉鬘はそれではと、御簾の中から小袿の重なった細長で、自分が着ていたのを脱いだのであろう、彼女の香りが、深くしみ込んだのを、薫に、今日の禄(褒美)として贈る。
「これは如何したことですか」
慌てて薫はこの屋の主の藤侍従の肩に渡して帰りかける。藤侍従は引き留めて薫に渡そうとするが、
「水駅のように簡単に、一寸立ち寄って、つい、夜が更けてしまったようである」
竹河の言葉にあやかって言うなり逃げるように帰っていった。水駅とは男踏歌の時に各家が少しの飲み物を台に用意するのを言う、踏歌の参加者はそこで口をすすいで渇きを癒したり少しの食べ物で隙腹を抑えたのである。蔵人少将は、薫が玉鬘邸に、ちょいちょい立ち寄るようであるから、玉鬘方の女房達は皆が薫に好意を寄せるであろうと、自分はすっかり、意気銷沈し、元気をなくして玉鬘方の女房達を恨みがましく見るのである。
人はみな花に心を移すらむ
一人ぞ惑ふ春の夜の闇
(玉鬘方の女房達は全部、綺麗な花(薫)に心を移すであろう。君達に見離された私は、いかにも只一人、迷っている、春の夜の、あやめもわからない闇の中に)
と謡ってがっくりとして立っていると、御簾の中の女房の一人が
をりからやあはれも知らむ梅の花
ただ香ばかりに移りしもせじ
(季節のせいによってまあ、その時々の情趣も感ずるであろうか。只梅の花(薫)にばかり、それ程、心が特に移り(好意を寄せ)るとも限りません)
と返歌が返ってきた。
翌日の朝に薫から藤侍従に、
「昨夜は酒を飲み過ぎまして大変失礼を致しました。そのような私をどう御覧になったことでしょう」
と、玉鬘にお見せ下さいと、仮名書きに書き、端の方に、
竹河の橋うちいでし一節に
深き心の底は知りきや
(昨夜、「竹河の橋の」と謡い、私の心中を少し披露したのですが、深い私の心の底を御察知なされたか)
と書き記してあるのを、寝殿の玉鬘の許に持って行く、玉鬘はこれを見て、親子で色々と話し合う。
作品名:私の読む「源氏物語」ー65-竹河 作家名:陽高慈雨