私の読む「源氏物語」ー63-匂宮
この先心細いことと思い自分の後見 として正式に依頼された。それで薫の元服の式なども冷泉院で行われた。薫の十四歳の二月に侍従という位を与えられた。秋には右近の中将に昇任し冷泉院の力で恩賜の位四位などをまで、どの点が気がかりなのか、冷泉院は、急いで位を昇進させて香を一人前の公卿にされた。多分、薫は源氏即ち準太上天皇の子であるから、皇族なみに四位(四品)になさったのであろう。又冷泉院は薫に、自分の居る御殿(冷泉院)に近い対の屋を、薫の部屋として、飾りつけや設備などは、自身で命じて立派に準備をさせ、そうして、薫付きの若い女房や女童や庭の仕事などをする下仕えの女房などまでも容姿の優れた者を選んで、姫君を世話する以上に華奢な生活が出来るようにして、冷泉院、秋好中宮どちらも仕えてる女房の中で姿が良く艶なる者は総べて総て薫の許に送った。それは冷泉院の中が薫にとって住みよい場所であるという風に思いこませ、彼が外を彷徨かないようにするために考えたことであった。この薫の扱いは亡くなった前の大臣の娘で弘徽殿女御と冷泉との間には女の子供一人しかないので、誠に限りにない程大切に扱っておられ留賀、それに匹敵するものであった。このことは冷泉院が秋好中宮を寵愛されるのが、年月の立つにつれていかにも深くなった反映であろう、秋好中宮は五十三才にもなり、冷泉院は四十二才ほどである、どうしてそこまで中宮を大事にするのかと、人が羨み不思議に思っていた。薫の母の三宮はいまは仏道修行を一心で、毎月、定期的に阿弥陀仏などの名号を唱える御称名仏事、年に、春秋二回の法華御八講と、その外に、時々の、尊い仏事の御供養だけをきっちりとして、その他はなすこともなく暇であるから、薫が三条宮に出入りするのを息子であるが、息子でありながら三宮は親のように頼りになる力と思い、薫は、そんな母三宮の心情が可哀そうで、帝にも冷泉院にも薫を呼び寄せて御側に居るようにと言われ、春宮始め明石中宮腹の次々の宮達、二宮・匂宮なども、親しい遊び相手にして、一緒に連れ立って行動をするから、薫は暇がなくて、母親の三宮も見舞いたいし、冷泉院、宮達の相手にもならねばならないので、どうかしてこの身を二つに分けたいと、悲鳴を上げていた。
薫は幼い頃から度々耳にした、実の父親は柏木である、ということを、時々思いだしては、不審であり、気がかりに思って居たのであるが、真相を聞く人もないのであった。
母親には、その出生の秘密を、少しばかりでも、自分が知っていると、いうことが分かれば、それは母親には大変工合の悪い事であるから、自分はいつまでも、忘れずに心にかけて、
「私はどのようなことで柏木の子供として生まれ、父親は源氏になったのであろう。どんな過去の宿命を負ってこの世でこんな煩悶をするのであろう、教えてくれる者がなく、瞿夷太子が、自分自身に尋ね問うて知る悟り、そうした知慧がほしい」
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と時々独り言を言っていた。瞿夷太子とはお釈迦様のことである
おぼつかなたれに問はまし如何にして
始めも果ても知らぬわが身ぞ
(自分の身の上がはっきりしないから、もしも尋ね問うとすれば、誰に問えばよいのであろうかなあ、どうして、出生の始めも、行末の事もわからない、我が身なのであるのか)
答える人もいない。
薫はどうかすると鬱ぎ込んでしまい、ひょっとすると自分は病持ちなのではないかと、あれこれ思い悩むのであるが、母宮があの若さで尼姿になり、どれだけの信仰心で仏の道に入られたのであろう。この覚悟には何か原因があるはずで、そのために出家をしたのであろう。その原因を誰かが知っているはずである。隠さなければならない重大なことがあり、それは自分に関係があることなので、誰も自分の耳に入れてくれないのである。
また、朝晩と、母はお勤めをなさるが、それもおっとりとなされ、女人の悟りだけではとうてい仏の道である真実の悟りを開き、浄土往生をする事も、困難である。女人の五つの障害があって成仏できないと言われていることが、やっばり気がかりであるから自分は、母三宮の出家の御道心を援助して生前・後世どちらにしても同じ事ならば、後世だけでも安心させてあげようと思うのであった。あの何となく父親と言われている亡くなった柏木という方も、辛い思いに迷いが解けないままで後の世に行かれたのであろうから、未だに迷いに彷徨っておいでになるだろうと推量し、薫は生まれ変わってでもお会いしたい気持が一杯で、元服をするのが何となく気が重いのであるが、辞退することは出来ないことであった。元服後は薫は世の中でもて囃されることも、栄耀栄華も、気に入らないで、静かに表へ出ることをしなかった。
薫の母親、三宮は帝の妹であり、帝が春宮の頃、父朱雀院から自分が出家をする際に三宮の事を頼まれた事もあって、そのような縁で薫への思いが深いので、薫を大層可愛いがり、后の明石中宮も父親が同じ源氏であることから自分の子供達と共に養育して、今もってその態度は変わらないのである。
「薫は末っ子として随分離れて生まれたので、生長を見届けることが出来ないのが残念である」
と、源氏が言われたことを明石中宮は思い、薫をなおざりにすることは出来ないと思っていた。中宮の兄である夕霧右大将も自分の子供達よりも薫を大切に細かなところまで面倒を見ていた。
昔のことであるが、光る君と評判の高かった方は、父桐壷帝の大変な御寵愛を受けていたがその光る君と言われた源氏を妬む、弘徽殿女御・二条右大臣などが帝の側についており、また、この君の母である桐壺更衣には後見をする人もなく母と早くに別れたのであるが、源氏は性格は何となく考え深く、世の中に対しては威張ることなくごく穏やかにと考え、自分の権威を他人に嫌われないように、控え目にしていたので、あのような源氏を無き者にしようと計画されたことも、当時起こるはずであったが、結局無事穏便に終わたせてしまった。これは弘徽殿女御一派の専横のために源氏の須磨退去ということがあったが、源氏は反抗せずに自分から進んで須磨に退去した。疑い晴れて無事に帰京後も、源氏は勢いを得て位も高く昇ったのであるが、恨みを報いようともしなかったので、世の乱れも起らなかった。
さらに、時期を誤らずに身を政界から引いて、万事、何気なく目立たず、いかにも気長でのんびりとした心構であった。
ところが息子の薫はまだ年も行かない早い間に、世間の声望は、実質以上に、大層あり過ぎ、しかも、気位の高く、仏道を修めようと、元服は面倒なこと、など普通人では考えられない性格を持っている。気位の高い事はなる程、薫は、当然仏道にはいるような因縁で、全く、この俗世界に生きてはいけない人物であった。佛菩薩か、佛の世界からこの国へ仮にやってきたのであろうかと、みられるようなところが薫にはあった。顔や姿は「どこか、いかにも勝れている、ああ綺麗である」と、はっきり見られる所もないが、体全体が艶めいて恥ずかしそうにして、それで心の奥底に多くのものを備えているような感じが、他人にはなく薫独特のものであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー63-匂宮 作家名:陽高慈雨