私の読む「源氏物語」ー62ー 幻
私は高い身分の子どもとして生まれ、また、普通の人よりも格別に残念に思う前世の因縁持っていると、いつも思っていた。これも世のはかなさを私に教えるために仏が私にし向けた宿命というものであろう。然し、そのことを私が知らぬ顔で出家もしないで生きているので、このように、私の臨終の時が迫っている老後に、これ以上の悲嘆はないという紫の最後を見届けさせられてしまった。自分の拙い運命も、悲しんでばかりいる意気地なさも、自分の心の限界をすっかり見てしまったので、心に残る事がなく気安い心境である。いかにも、紫の亡き今になって、この世に少しの執着もなくなってしまったのであるけれどもねえ。中将君や中納言君、その他誰彼など、紫のかつて存命していた時よりも格別に、こうして私に馴染むようにする女房達が、私の出家で、今はこれまでと、考えて、あちこちに行き別れるとすれば、その時こそ、
一層私の心が悲しみできっと乱れるであろう。この世は全く、頼りなくつまらないなあ。それは、思い切りの悪い私の心からであろうかなあ」 涙を隠そうとしてもすぐに流れ落ちてくる源氏を見て女房達は、源氏以上に泣き崩れてしまった。そうして源氏が出家するならば、源氏に見離されてしまう嘆かわしさをそれぞれ口に出したく思うがそうも言えないで、続けざまに泣くぱかりで何も言わなかった。
このよう後悔し残念ばかりを嘆いて明かした夜明け方、また、物思いに沈んで日中を過ごした夕暮などのひっそりと、もの静かなときは、前々から親しくしていた、あの女房の中納言君や中将君を近くに呼んで、前に語ったようなことをまた話をする。女房の中将の君はまだ幼少であった頃から、側に仕えさせて、紫が色々と指導した者で、源氏は人目を忍んで彼女と伴寝をして手を出さずにはおかなかった。
彼女は主人の紫に対して、大層、心苦しい事に思い遠慮していたのであるが、紫亡き後は色めいた方面ではなく、他の女房達よりも中将を大変かわいがり紫が心を止めていたのを源氏が思い出して、紫の形見の人として中将がいかに心寂しく思っているだろうと可哀想に思った。中将は気立てや姿などが美しく紫と良く似いるのを、何の関係も無い者よりは、私とも親しいし気転がきくと、思うのである。
源氏は、あまり親しくない人や、上達部の親しい人や、兄弟の蛍宮達が源氏の見舞いに毎日のように来訪するのであるが、一向に会おうとはしなかった。源氏は、他人に面接するような時だけは、しつかりして気持を落ちつけることによって悲嘆にくれている心を正すことが出来る、と思うのであるが、この幾月かの間に、ぼけてしまった身の有様では、見苦しい愚かな事が話の中に交ると思うと、そのことが後の人にまで、自分は惚けてしまったという評判が残るであろうし、その上、死後の悪い評判まで立つのはいやな事である。そうは言っても、いかにもぼけて、源氏は誰にも会わなかった、と悪い評判が立つことも同じようなことなのだが、噂に聞いて想像する事の不体裁であるよりも、見苦しい事を、直接に見られる方が、この上なく大きな恥である。と思っていたので、息子の夕霧でも御簾を鋏んで面会をしていた。紫と死別して源氏がこのようにまで心が変わってしまったと、この有様を見て世間の人が言い触らすであろうから、せめてしばらくのあいだだけでも、いかにも、心を静めて、世間の目が遠ざかるのを待ってから出家しようと、我慢して過ごしてまだ現世を捨ててしまわず、明石上や花散里などの囲っている女に、時たまちらっと訪問するが、話が紫のことになると思い出して、堰き止めかねる涙の雨ぱかりが流れ出てどうにもならないので、源氏は、外の夫人達に顔も出す事が出来ない状態である。娘の明石中宮は宮中に帰り三宮である匂宮を、源氏の寂しさを紛らわそうと、二条院に残していた。
「母様がおしゃってました」
と匂宮は言って西の対の全面の紅梅をとくに世話をして見廻るのを、源氏はしみじみ可愛らしいと、見ていた。匂宮が言う母様とは紫上のことで、この紅梅を頼むと言われたのは紫の遺言であったのであるが、小さい匂宮はそのようなことは分からない。二月如月であるので花咲く木は満開なのも、まだ満開でないのも、梢が、ずうっと霞んでいる中に、匂宮が言う紫の形見の紅梅に鶯がやってきて綺麗な声で囀るのを、庭に出て源氏は見上げた。
植ゑて見し花のあるじもなき宿に
知らず顔にて来ゐる鴬
(紅梅を植えて、大事に育て、花を眺めた主人も、今はいないこの宿に、この花の主人のいない事を知らない様子で来て鴬が鳴いている)
と、源氏は紅梅の周りを吟誦しながら歩いていた。
春が段々と深くなっていく、二乗院の前の庭の様子は昔と変わってはいないが、春の庭が好きであった紫を思い源氏は、何処を見ても胸が詰まるような気がして別世界の鳥の音も聞えないような、山の奥が恋しいとばかり、益々その気持が深まっていった。気持ちよく山吹が咲いているのも、悲しみのあまりすぐに湿っぽく見てしまう。この二条院の庭以外の桜の花は、一重が散って、八重に咲く八重桜が咲き、その満開が過ぎてから後に、樺桜が咲き、更に藤が桜に遅れて色づき始めているのを紫はその
遅く咲く花、早い花と、花の性質をよく分別して、桜の花の種類の有りったけを求めて、取りまぜて植えていたから、この二乗院の庭は咲く時期を忘れずに、美しく一杯に咲いた所に、匂う宮が、
「私の桜は、咲いてしまっている、何とかして、何時までも、散らしたくない。木のまわりに几帳を立てて、惟子(垂れ布)をまくり上げなければ、風は吹き込んでこないだろう」
と、上手いことを考えたと思う顔がとても可愛いのが源氏には楽しく微笑んで、
「大空を覆いかぶせる程の袖を求めたとか言う昔の人に比較しては、大層賢く、思いついたねえ」
と言って匂宮ばかりが源氏の良い遊び相手である。
「お前とこうして遊べるのももう僅かなことだなあ。もう暫く私が生きていようともお前と会うことはあるまい」
と、出家のことを考えると涙が出てきたのを匂宮は、変なことを言うと、思ったのか、
「母上様が前に私に言われたことと同じ事を、じじ様は縁起でもないことを仰せになりますね」
と、匂宮は伏し目になって涙を流し着物の袖をいじり廻して、涙をごまかしていた。
源氏は二条院の西対の隅の間の欄干に押しかかって、花を愛でる主人紫のいない前の庭や、紫の居ない御簾の中などを見回して、回想に耽っていた。紫付きの女房などの中にも、紫上の思出の色(喪服)を脱ぎかえない者もある。志の厚い者は一周忌まで除服しない者もいる。除服した女房は平常の色あいであるも、色々の模様を織り出した絹綾織りなどの、花やかな立派なものは着ていない。源氏の直衣も色あいは、平常のものは桜色であるけれども、殊更に目立たないように略して、無地の絹(平絹)を着用していた。三ヶ月すれば普通の服装にしても良いのであるが、源氏は敢えてそうしなかったのである。部屋の飾りつけなども、出家の気持があるからか大層簡素に省略しているので、室の中は物寂しくしめやかであるので、
今はとて荒らしや果てむ亡き人の
心とどめし春の垣根を
作品名:私の読む「源氏物語」ー62ー 幻 作家名:陽高慈雨