私の読む「源氏物語」ー60-夕霧ー3
落葉宮は一心に出家を思うのであるが、そんな周囲から鋏などの切れ物は総べて女房が隠してしまい、彼女を女房達が厳しく監視していた。宮はこんなに鋏を隠したり、見張までして大騒ぎをしないとしても、それでも大切な身でもないのに、愚かしく思いつめて考えもしないで、何で人目を忍んでまで出家をしようか。人に隠れて出家などするならば人が聞いて、あの女はなんと強情であると、思うであろう。落葉宮は自分の本当の気持ちを実行することはなかった。女房達は引っ越しの準備が忙しい、おのおのが、櫛、手箱、唐櫃その他色々のものを、つまらない一寸した袋に入れたような物なのであるけれども、総てを先に京に運んでしまったので、落葉宮一人が小野に泊まることも出来なくなってしまい、涙ながらに車に乗り込み、車の中では落葉宮は自分の周囲ぱかり、自然に見つめて、母の亡き御息所と共に小野の山荘に来たときに、御息所が病で苦しむ中でも娘の髪をなでつけて、彼女を降ろしたことを思いだし、涙に目が曇ってしまい悲しさは一入であった。母御息所の形見の御守り刀に添えて、経文を入れる箱をつけて頂戴したものが、落葉宮の側を離れず何時も手許にあるから、
恋しさの慰めがたき形見にて
涙にくもる玉の筥かな
(見ても、母御息所恋しさの慰め難い形見なので、見る度に、恋しい涙に目が曇って、十分に見られない美しい経箱であるなあ)
喪中用の黒塗りの箱も、まだ落葉宮には、間にあわなかったので、今手にしているこの経箱は、御息所がかつて常に使っていたあの青貝を散りばめた螺鈿の箱なのであった。読経の布施にと、かつて御息所が作ったのを、落葉宮は形見として貰った物である。箱を持っての帰館は浦島の子が玉手箱を持って帰郷した気持である。
一條宮に到着すると、屋敷内は悲しみはなく人の気配も多く以前の屋敷とは変わっていた。南面に車を止めて、降り立つのであるが、落葉宮には故郷の感じがしない、気味悪く、嫌だなあと、自然に思うので車から降りようとしない。
「おかしなこと」
「子供みたいなことを」
と女房達が見て、どうして良いか困ってしまった。
夕霧は一条宮の改修に当たって寝殿の東の対の南面を自分の居間にと仮に造って住み付いてしまった。夕霧の本宅三条殿では
「急に夕霧様はあきれた様子になられたことよ」
「何時の間に落葉宮と関係が出来たのであろうか」
と女房達が驚いていた。物軟かで派手な流行を、好ましくないと考える真面日な人には、こんなに思いもよらない突然の事が、急に真面目な性格のなかに出現するのであるなあ。
それにしても、タ霧と落葉宮との関係は年数が経てしまっているのに、夕霧は外に漏らさず音も聞こえないようにしていたのであるなと、三条邸の者達は思っていて、このように落葉宮の気持が固く、夕霧を許してはいないと言うことを、知る者はなかった。このように、夕霧の態度にしても、このような三条邸の人々の思惑にしても思い違いは困ったことである。
精進の作法なので婚姻の最初としては、忌ま忌ましく縁起が悪いけれども、食事も終わって屋敷中が静まりかえった頃に夕霧は落ち葉の部屋に行き、落葉宮に会おうと女房の少将を呼び出して、宮に取り次ぐように責め立てた。少将は、
「本当に、御志がいつまでも長く変らずに、落葉宮を御好意を持って御思い下されるのであるならば、今ではなく一両日後にお逢いしてください。宮は、本邸一条宮に帰って、御喜びどころか却って、今は物思いに沈んでしまって、まるで死んだ人のように臥せってしまっておられます。私たちが御取りなし申しあげるのに対しても、落葉宮は、情ないとぱかり、思いなされるので。私どもは何事も、宮の身のためでござります、御機嫌を損なうのは宮の体に良くないので、お逢いするように御取りなしするのは全く大変なことですので、今はお取り次ぎが出来かねます」
「此はおかしなことで、私が、推量した事とは相違して、落葉宮は、いかにも幼稚な聞きわけのない、合点の行きかねる御心なのでありますね」
タ霧は自分が思いついたことは、落葉宮のためにも、タ霧自身のためにも、世間から非難があるまいと、少将に何回も言い続ける、
「いやもう、只今は、御息所の亡くなられた後、又、落葉宮をも、亡き人として、見申しあげなければならないことになるのであろうか」
と少将は落ちつかない苦しみのために、どうして良いか分からなくなり、
「あなた様は、何かと無理に押し通そうと、向う見ずの一途な御心を引っ込めてくださいませ」
と手を摺り合わせて夕霧に必死に頼むのであった。
「全く、私のまだ経験した事のない世界であるよ、つらい目に逢った。私を、憎たらしいあきれた人と、柏木よりも、もしも落葉宮がさげすみなされるとするならば、そんな我が身こそ情けなさが大きいよ。落葉宮の態度と私の態度と、無理は、どちらかと、誰か外の人に、何とかして判断してもらいたいものである」
と、落葉宮の態度を、言いようがないと、不愉快を口に出して少将に言うと、少将もさすがに夕霧が可愛そうになって
「まだ知らぬ世かなと、の仰せは、なる程、尤もで、それは、いかにも男女の情にお慣れでないタ霧様のお心のせいであると、思います。誰かに判断して貰おうと仰せでありますが、なる程、どちらが正しいかは、どちらにあると言ってまあ、夕霧様に味方をする人がおられましょうか、貴方の行為が無理であると判断するであろう、と私は思いますよ」
と、少将はタ霧を非難したので、照れかくしに少し笑ってしまった。このようにこの女房は強情を張るけれども、今となっては、そのような強情にせき止められるものでないので、そのまま、小少将を促し立てては、不案内の所をあてずっぽうで奥に入り落葉宮の寝ているところに押し入ってしまった。
夕霧が入ってくると落葉宮は益々気分が悪くなり、
「思いやりがなく軽はずみな、タ霧様の後生分ですねえ」
と言って、憎らしくつらいから、落葉宮は、このように男を避けるのは、若い人のように男嫌いな素振りをして考えが浅いように非難され、女房達がやかましく言うであろうが、止むを得ないと、寝殿の中の壁がある塗籠に御座(畳)一枚を敷いて、その上に敷物置き、内から鍵をさして開かないようにして籠もってしまった。こうした夕霧逃避もいつまでのことで、夕霧から逃げ通す事は不可能であろう。これ程に男女間のことに興味がある女房達の前で、タ霧と同じように浮き浮きしてことの成り行きを見ている女房の気持などを考えると、落葉宮は悲しく口惜しく隠れた塗籠の中で思っていた。夕霧はあきれて、どうしようもなく辛いこと、と落葉宮の行動を思うのであるが、塗籠に逃避した程の事で、何で自分が、落葉宮を断念する事があるかと、のんびりと塗籠の戸口で色々と考えて夜を明かした。「昼は来て夜は別るる山鳥の影見ぬ時ぞ音は泣かれける」新古今集の歌のような気分であった。
やがて夜も明けようとしていた。こうなってしまってはやる事と言えば、直接睨みあいで、あろうから夕霧は落葉宮の出てくるのを
「御話ししたいので、只少しの隙間だけでも開けてください」
と叮嚀に催促するが、返事がない。
怨みわび胸あきがたき冬の夜に
作品名:私の読む「源氏物語」ー60-夕霧ー3 作家名:陽高慈雨