私の読む「源氏物語」ー59-夕霧ー2
このころから比叡山からの山颪が激しくなり、木の葉も散ってしまいすべてが万事、本当に心が寒くなるような寂しい時期であるから、澄み切った寂しい空に誘われるように彼女の涙が枯れる暇もなく、この身の不運な上に、母御息所と一緒に死のうと思った命までも思うようにいかずと、落葉宮は自分自身の嫌悪感で哀しんでいた。お付きの女房達も喪中であるので総べてのことが悲しく思われて、困っていた。夕霧は使いを出して毎日落葉宮に慰めの言葉を送っていた。喪中の間供養する、寂しそうである念仏僧などが、彼女を慰めるだけであるなかに、夕霧は色々の物を送って懇ろに弔いをし、落葉宮の前には、しみじみと、情愛の深い言葉を有るだけ書いて、落葉宮の薄情を恨み申し、一方では、哀しみを忘れないと弔問の言葉を書き連ねて送るのであるが、彼女は見ようともせずに、何となしに、タ霧が落葉宮の居間に押し入った事を、母御息所が、病気で弱った御気持で疑いもなく,二人が契を結んだと信じ込んで、常識である三日間の訪問をタ霧が訪ねて来ない薄情を嘆きながら亡くなった事を想い出すと、今生にては執念となり母御息所の後世の成仏の、妨げになるであろうかと、落葉宮は、何となくその事が胸の中を覆い、落葉宮はタ霧の事と、それをだけでも女房が口にすると、つらく情ない恨めしい涙が出てくるので、女房達も、落葉宮に夕霧のことを伝えるのを控えてしまった。
夕霧へ一行たりともの返事がないのを、最初のうちは悲しみで書くことが出来ないのであろうと、夕霧は思っていたのであるが、あれから随分時が経過しているので、死別したという悲しみはあるが、かぎりがあるものであろう。
彼女は何故このように、物のわからない子供のように、私の真意を、理解しないのであろう、理解して欲しいのにと、悲しみの慰間より外の事の方面で、花や蝶やと懸想じみた事を、落葉宮に書く場合には、それこそ立腹して返事をしない事もあろうが、彼女の心をしみじみと悲しく思い、どうであるかと、慰めてくれる人には、いかにも親しみ深くしみじみと嬉しく思うであろう。夕霧が祖母大宮(葵上の母)が、かって御亡くなりなされてしまった時に、自分は大変悲しいことと思ったが、前大臣雲井雁の父は、実の子供であるのにそれ程悲しいと御考えなされておらず、死別は、世の中の道理であるからと思われたのか、実子であるのに,公の作法通りの儀式だけの事を供養しなされた故に、夕霧はその心が当時情なく不快であったけれども、亡き大宮にとっては婿である父源氏が、実子でもないのに、実子の前大臣かっての頭中将よりも、却って、心をこめて鄭重に、葬儀後の七日七日の御法事をも、営んで差し上げたが、源氏は自分の身内(父親)であるという、間柄でも夕霧は源氏の行為を、当時立派な行為で嬉しく思ったものである。その際に亡き柏木が自分と同じように深く哀悼しているので、夕霧は柏木をその時から親しみが増したように考えてしまった。柏木は人柄がしんみりと沈着で、その頃物事を注意深く考える性質で、人情味も他の人より深かった点で
夕霧は柏木を懐かしく思った。などと夕霧は過去のことを次々と思いだして一日を過ごしていた。雲井雁はそのような夫の夕霧を見て、落葉宮とタ霧との関係がどうなっているのであろうか、夕霧は亡き御息所とは文通していたが、始終しておられたのであろうか、などと、そこら辺の詳細が分からないので、夫が夕暮れの空を眺めながら横になっているところへ男の子供を差し向け、夕霧に渡した消息文の小さな紙の端に、
あはれをもいかに知りてか慰めむ
あるや恋しき亡きや悲しき
(貴方の、じめじめと悲しんでおられるのは、生き残っておられる落葉宮が恋しくてか、亡き御息所が悲しくてか) 私は、そのどちらかはっきりしませんのでお慰めする方法が分かりません」
とあるのを読んで夕霧は笑って、落葉宮の事、御息所の事と、あれやこれや色々に雲井雁が想像を巡らしておられるようだが、仰せなされる御息所への悲しみは私には不似合なことであるから、何かの口実でしょうと、思い問題を避けるようにしてすぐに
いづれとか分きて眺めむ消えかへる
露も草葉のうへと見ぬ世を
(どちら、落葉宮と御息所と、言って特に思いつめて悲しんでいようか、悲しんでいるのではない。人の身のようにすぐに消えてしまう露も、草葉の上に止まっていると見ない、無常のこの世であるから)
この世というものは寂しく悲しいものですよ」
と書いて渡した。
夕霧はまだ自分を避けていると、雲井雁は、この世の、露のような無常をそっちのけにして夕霧の無情を嘆いていた。
夕霧は気に懸けてもらえない落葉宮を心配に思い、また小野へ出向いた。御息所の四十九日などを過ごして後に
ゆっくりと、と心は焦っているのを必死で堪えていたのであるが堪えきれずに、今となっては、落葉宮と嘘の浮名の立ったのを利用しないでどうする、
世間並に色気を出して言い寄り、最後の望みをいかにしても適えてやると、タ霧は決心してしまった。だから雲井雁がうすうす感じていることを、無理に打ち消そうと申訳をしないのであった。落葉宮本人は、タ霧を嫌われて強情にはねつけなされるとしても、御息所からの、一夜だけで落葉宮を見捨てたと言う、恨みの消息文を理由にして、口説いて見よう、そうすれば彼女も潔白と主張する事は出来ないであろうと、夕霧は勇気を出して彼女に言い寄ろうと決心したのである。頼もしいことである。
九月も十日も過ぎると野山の景色は情緒を知らない人でも、何か美しいと思うようである。山の風に耐えている
山荘の木々の梢も、小野の山の峰の葛の葉も、「風早み峰の葛葉のともすればあやかりやすき人の心か」拾遺和歌集の歌ではないが落ちつかず気ぜわしく、先を争って散っている、そんな中を読経の声が厳かに微かに、その他は念仏する僧の声だけが聞えて、山荘に人のいる様子は少なく、外は木枯らしが吹いて。鹿が山草の垣根の許に佇んでいて田圃の鳴子にも驚かず、黄金に実る稲の中に混じって鳴く声も
なんとなく人の哀れを誘うように悲しそうである。滝の音は思いを持つ夕霧を驚かそうと耳につく大きな音で轟き響いている。
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草むらの蟲だけが晩秋に居場所をなくして弱りながら鳴いて、枯れた草の下より秋の到来を思わせる可憐な蔓竜胆が大きな顔をして我一人生きているかのように長く這い出てきて露に濡れているように見えるなど、みんながこの季節のことであるが、秋も終わりになると都を外れた所であるのか見たり聞いたりする度に人を寂しがらせ、悲しがらせるのであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー59-夕霧ー2 作家名:陽高慈雨