私の読む「源氏物語」ー58-夕霧
と、夕霧は今までの男の欲からの行動的な情熱を抑えて、態度を一変し、風情深いように気を遣った柔らかいものにした。落葉宮が襖を押さえているのが、男の攻撃に何の頼りにもならないのであるが、夕霧はこれ以上彼女の体を引き寄せようと襖を開けることはしないで、
「襖一重だけ隔てでもして置こうと、貴女が無理になさるのは、とてもいじらしいと思います」
と笑って、これ以上の行為はしない夕霧であった。
落葉宮の容姿はしっくりとして優しい感じで上品で若々しく、優雅で美しいのは、柏木が鬱陶しく思っていたので、綺麗な顔立ちではないと思ったり、妹の三宮には劣るなど、世間の風評も聞いいていたのであるが、夕霧が初めて近くから見ると、もう夕方も過ぎて辺りは暗いのであるが、皇女と言うだけあって、世間で言うほどのこともなく、やはり品がある姿であった。ただ、柏木との死別、母御息所の物怪などこの何年か常時悲しい出来事が続くので、何かと悲嘆にくれ事が多いせいか,一見痩せ細って弱々しそうな気がして、平素の普段着の儘の衣の袖の辺も締まりがないようで、衣装にしませた薫りも引きくるめて、彼女は可愛らしげで上品で優しい性格のように感じた。
夜の風が、寂しそうに吹き更けていく夜の庭に鳴く虫の音も、山で鳴く鹿の鳴き声も滝が滝壺に叩きつける水音も一つになってばらばらに聞こえてくるのも、風情のある場所であるから、恋などもなく、平凡な情緒に疎い人でも、きっと、寝ることが出来ないであろう下弦の月が細く光る空の様子であるのに、ここは格子も上げたままであるので、二十日の月が山の端に近くなった風情は、感情豊かなタ霧などには涙も止めかねる程寂しい感じがする。
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「こんなに、私の貴女をお慕いする心を理解なさらぬ御態度こそ、やっぱりまだ貴女の人を思う心が浅いのであると思ってしまいます。このように人の情というものを知らない、心の愚かな人は他にないように私は思ってしまいますよ。何事にも考も浅く、軽い身分の女は、確かに,私のような女に手も触れル事が出来ない男を、「愚か者」などと瑚弄して、同情のない心を示すものであります。貴女があまりにもひどく、私を見下げなされたから、私の貴女を思う切ない気持ちが益々高ぶってきました、男女の情を、全然、御存じないわけでもあるまいものを」
と、夕霧は柏木に嫁いだ落葉宮がよもや男女の性を知らないことはないであろうと、少し下卑た言葉を言った。
夕霧があの手この手と落葉宮を口説き、又落葉宮は責め立てられて、どんな返事をすればいいのだろうかと、辛い気持ちで考えてみる。落葉宮が柏木の夫人であったから男女の欲情は充分知っているから、男が誘っても何の不都合はないし、女は男を求めて靡いてくるものであると、何の気がねもいらないように、タ霧が時々、それとなく言うにつけても、いやらしく恥ずかしくて、落葉宮は、母がかって仰せられた通り、なる程夕霧からの懸想も,わが身の他の女よりも情なさ不運であるなあ、と不幸な自分の人生の悲しさを考えると落葉宮は自害するほかあるまいと、
「柏木を夫とした、情ない自分の過失をしっかりと知りました、又夕霧様が
このように品のない態度を取られることを、私はどの様にお相手申したらよいのでしょうか」
と微かな声で夕霧に答えると、悲しみに泣いてしまう、それでも、
我のみや憂き世を知れるためしにて濡れそふ袖の名を朽たすべき
(柏木に連れ添って夫婦仲を知った私が、柏木の死に涙を流して袖を濡らした上、貴方に逢つて、又、袖を濡らし、私だけがひたすら、名を汚さねばならないのですか、そんな酷いことを、だから貴方の言葉には付いていけません」 と、とぎれとぎれに詠うのに、夕霧はその歌を心の中で考えながら、忍ぶように小声で詠唱するのを、落葉宮は
きまりが悪く、こんな歌を、どうして言ってしまった事かと、自分に腹を立てていると、
「夫婦仲を知らぬわけでもないなどと、なる程、貴女の弱みを誘い出すようなことを言ってしまいましたと、夕霧は自分が言ったことがまんざら彼女の女
心に当たるとも遠くはなかったと、微笑んで、
おほかたは我濡衣を着せずとも
朽ちにし袖の名やは隠るる
(たとい、私が貴女に汚名を着せなくても、皇女として柏木に嫁しなされた汚名は、隠せますか隠せないでしょう) だからくよくよせず私の思う人になりなされ」
と夕霧は返歌して月の見える簀子の方へ落葉宮を誘うのであるが、彼女は、
あきれたことを言うと、応じなかった。
落葉宮は気を張って夕霧と話をするのであるが、夕霧は簡単に落葉宮を引き寄せ腕の中に抱きしめて
「このような私の気持ちをお聞きになった上は、これからは安心して私にお会い下さい、貴女がその気になるまではこれ以上のことはいたしませんから」
と落葉宮にはっきりと言う夕霧の態度は真面目なものであった。
明け方近くなった。月は綺麗に輝き、霧に妨げられず光が屋内に差し込んでいた。山荘の仮のような家屋であるので奥行の浅い廂の間の軒は、幅もないから、部屋の中にいても、月光に直面したようで、妙に、きまりが悪いので、月光に照らされないよう、顔を隠した落葉宮の態度などは、何となく男心を誘う艶めかしいものであった。夕霧は柏木との過ごした想い出をゆっくりと落葉宮に話した。しかしそれでも彼女は夕霧を柏木に比べて軽く考えていることが悔しく感じていた。落葉宮自身も心の中で、柏木はまだ位も低く人並みではなかったが、父の朱雀院母の御息所など周囲の方々の誰もかれも二人の結婚を承認して下さったので、私に馴染まれたのであったのに、そのようなことを他所に、何であれほど私に薄情であったのであろうか、私がこんなになってしまったのは、何と言ってよいかわからない。そのことよりもましてタ霧とこんな、あってはならない契を結ぶ事についてタ霧が全くの縁のない人であればまだしも、彼の妻は柏木の妹ではないか、柏木の父の致仕大臣などに知られもしたら、どんな事になるかなあ、世間からは当然非難されることであろうし、父の朱雀院はどう思いであろうか、など考えることが次々と出てくる。やはり夕霧が自分を求めてきたことが悔しくて、操を立てようと自分の心をこのように気強くして、タ霧の求めに応じなくとも、世間の人の噂はどうであろうか。母の御息所がお知りにならないことも罪深いことである。後からお聞きになって、なんと幼稚なことをと、言われるであろう事も情けないことである。
「夜が明けないうちにお帰りになって」 と、夕霧を追い払うより方法はない。「驚いた情けのないことを言われる。愛し合っての、後朝の別れのような顔で、もし朝露を分けて帰りまするならば、「変だ」と、朝露が思います事よ。貴女がやっぱり後期らしく帰れと、ならば私の思慕の情を汲んで下さい。私のこのような馬鹿な逢い方を、貴女に見られこそこそ帰る私を、うまくだましすかして追い出してしまったと、貴女は思い、私は追い返され、そうなると私も心を鎮める事が出来なくなり、考えが乱れてしまって色々の事や、不都合なことをやり出すようになりますよ」
作品名:私の読む「源氏物語」ー58-夕霧 作家名:陽高慈雨