私の読む「源氏物語」ー56-横笛
「柏木の死んでからは落葉宮は、和琴など弾きなさらずせめて、昔の子供の頃の遊びの方法も少しでもと思うのですが、今は思い出せなくてなってしまっています。朱雀院の前で女官達が思い思いにそれぞれの絃楽器などをもち出して演奏会を開いたときに、落葉宮は、なかなか音楽には勝れていると、朱雀院が、認めになったほど巧みであるのですがねえ。昔と違って今は気が抜けてぼうっとして、何事かをずっと思いこんでいて、ただ見ているだけで、和琴を弾く事も、柏木を思い出しなどして「昔の世のつらい思出の種になる」と避けていると私は思っています」
「事実そうでしょう、和琴に触れると柏木とのことを思い出し悲しみが又湧いてくる。柏木を恋い慕う事にも、「悲しさの限りあるだにある世なりせば年経て物は思はざらまし」の歌のようにせめて限界でもあるならば、今まで嘆き続けはなさるまいのに」
と夕霧はいって琴を御息所に押し渡すと、
「それでもやっばり夕霧様が柏木の手が落葉宮の琴に籠もっているのを聞きたいのであれば、貴方も柏木と親密なのであったから、柏木の音が貴方の声に伝わっている事でしょうと、私が聞き分ける程、その和琴を弾きなされよ。私の気がむさくさする悲嘆にくれているこの耳を、貴方の歌でさっぱりとさせましょう」
と夕霧に頼むのを彼は断って、
「そのように、柏木の音の、落葉宮に伝わっている夫婦間の音は特別なものです。その、柏木から落葉宮に伝来した特別な音を、どうしても私は落葉宮から拝聴しようと、お願いしているのですから、他人の私などが、どうして弾く事ができましょうか」
と夕霧は琴を落葉宮の御簾の方へ琴を押しやるが、彼女はとても弾ける状態ではないので、これ以上強いることはしなかった。
月が出てきて曇り一つ無い空、互い違いに羽を降る雁も列から離れないのを、夫柏木と死別した落葉宮は羨ましく見ていた。秋の風は寒い。この雰囲気に刺激されて落葉宮は箏の琴を弾き始めた。深みのある声に夕霧は箏の音に引き込まれて、奥深い箏の音を聞かなければ何でもないのに、なまじっか聞いたから、和琴も勝れているであろうと、却って和琴が聞きたいと琵琶を持ってきてもらってまず懐かしい想夫恋を弾きだした。
「想夫恋、夫を思うて恋う、などと落葉宮の御気持を思うと気が引けるけれども、あえて弾きました。想夫恋は、夫を想う曲であるから、貴女としても夫柏木を偲んで私に御相手をなさるであろう御弾きなされよ」
と言ってしきりに簾の内、母屋の落葉宮を、和琴と合奏するように誘い勧めるけれども、彼女は合奏するのも恥ずかしく、その上曲が「想夫恋」である、その問いに簡単に返答はできないので、落葉宮は黙ったまま心にこみ上げてくる物を、しみじみ思っていると、
ことに出で言はぬを言ふにまさるとは
人に恥ぢたる気色とぞ見る(言葉に出して口で言わないのも、言う
より以上に深い思い(恋の気持)であると言う事は、落葉宮が、タ霧に恥ずかしがっている様子で、いかにもわかりまする)
と夕霧は歌で落葉宮を責め立てると、落葉宮は想夫恋の最後の方を弾いて、
深き夜の哀ればかりは聞きわけど
ことよりほかにえやは言ひける
(月の夜ふけの想夫恋の哀情だけは、私も聞き分けまするけれども、和琴を弾くより以外に申しあげる事はありません。言わぬのも言うのにまさると、言う気持ではありませぬ)
タ霧が聞いて飽かず情趣の豊かな月の夜ふけの程に、和琴のような、大まかな音色であるのに、昔の人が、心を打ち込んで弾き伝えたのであった。誰が演奏しても同じような想夫恋ではあるが、夕霧がしみじみと落葉宮を思慕するには物寂しく恐ろしいものながら、落葉宮は一部分だけを演奏して止めてしまったので、夕霧はそのことを恨めしく思ったが、自分が落葉宮に懸想している一端を琵琶や和琴を通して落葉宮に申し入れた。これ以上秋の夜を長居するのは、故人柏木が咎めもしようと、遠慮して、退出致してしまわねばならないと思い、それとも、失礼のないように、何としても気をつけてこの場に更に居続けるか、
「次に私がお目にかかるまでこの琴の調べを変えずに私をお待ち下さい。気持を、簡単に変えてしまう世の中でござりまするから、この後貴女のことが気になってしかたがありません」
などはっきりしたことは言わないが、自分の宮を思う気持ちを匂わしといて退出することにした。
「今夜の御風流に対しては、柏木も、きっと喜んで許してくれると思いますよ。どことない漠然とした昔物語、『柏木の手が落葉宮に籠もるなど』、話を取り紛らわし『懸想の下心をほのめかしなどなされて』、多くも御弾きなさらないので、「片糸をこなたかなたに縒りかけてあはずはなにを玉の緒にせむ」(片糸をあちらこちらから縒り合わせて糸を作るように、あの人と逢うことができなければ、私はいったい何を生きがいとすればよいのだろうか)古今集の歌の気持ちです、心残り沢山あります」
と言って夕霧に笛を下さった。
「この笛は、本当に古い由緒も、伝わっているように、かつて聞いています。その笛がこんな、蓬の生えた荒れた宿に、受け嗣ぐ人もなくて埋れるのもとても残念に思っていました。この笛が車の中で、前駆の先払いの声に交って、競うようなこの笛の音が、どんなに良い音であろうかと、何としても、よそながらでも聞きとうござりまする」
と御息所が夕霧に言うと、
「いかにも、私の持物としては似合わない笛ぢありましょう」
と手にとって夕霧は和琴と共に見てみると、古い言い伝えがありますと、御息所の言葉の通り柏木が、一生涯身に添えて大事にして自分でも、
「一向に、自分は、この笛が持っている妙音のすべてを吹きこなすことが出来ない。もしも、この笛を所望する人があるならば、その人に伝えてもらおう」
と折に触れて言っていたのを夕霧は思い出し、この笛が懐かしく試しに一曲吹いてみる。盤渉調の半分ばかりを吹いて中止して、
「柏木の昔を追憶する和琴の独奏は、下手であるが、あれでまあ、故人を偲ぶ意味で、欠点は許されるのですが、然し、この笛を吹く事は、どうも気恥ずかしいものであります」
と言って夕霧が出て行こうとすると、
露しげき葎の宿にいにしへの
秋に変はらぬ虫の声かな
(露が一杯に降りている荒れた雑草に埋もれた宿に、柏木在世の昔の秋に変らない虫の声(笛の音)を聞かせてもらいました)
と、御簾の外のタ霧へ御息所は歌を投げた。受けて夕霧は、
横笛の調べはことに変はらぬを
むなしくなりし音こそ尽きせね
(主はいないが、横笛の調子は残っていて、恥ずかしく、きまり悪うござりまする。昔と格別に変らないけれども、その笛の持主の、既に亡くなった、悲しみに泣く(虫の鳴く)音は、いかにも尽きる事をしない)
帰ろう押して夕霧が少々帰るのが惜しく感じて躊躇したため、夜も深厚となった。
自邸の三条殿に帰ると格子を降ろさせ全員が就寝に付いた。
「落葉宮に気があるので、殿は落葉宮に親切な風を示し申しなさるぞ」
作品名:私の読む「源氏物語」ー56-横笛 作家名:陽高慈雨