私の読む「源氏物語」ー53-若菜 下ー4
「どうして、源氏の招請に対して辞退するのか、参上せぬとあってはひねくれているように源氏は勿論朱雀院も思われることである、たいした病でもないのだから元気を出して参加しなさい」 と催促する上に源氏からも再度の招聘の文があるので、柏木は気分が重いのであるが六条院へ訪れた。彼が訪れたときにはまだ上達部達は参集していなかった。源氏は来訪した柏木を何時ものように、源氏の近くの廂の間の御簾の内に柏木の席を造りそこに柏木を案内させた。この御簾は廂の間の外側に懸けてある。そうして自分は自分の席である母屋と廂の間の御簾を隔てて柏木と相対した。柏木は本当に痩せてしまい顔色も青く、快活な点は弟達に何時も圧倒せられているが一段と嗜み深そうな顔で、落着いている様子が特に目立つのであったが、今日は更に静かに坐っている様子は、朱雀院の二宮の夫として相応しい欠点がないのではあるが、ただ、密会の情事で、柏木も三宮もどちらも後暗いのに、全くよそ事のような顔をしているのが許し難い、などと源氏は柏木のしでかしたことが不快だと、憎悪を覚えずにはおられないのであるが、柏木と目を合わすとさりげなく懐かしそうに、
「何という用件もなくて、会うのは本当に久しぷりになってしまったね。私も最近は紫や三宮がこもごも体調を崩して看病に忙しかったのであるが、朱雀院の五十の賀のために三宮が、朱雀院の延命供養のためにかねてから法要を営みたいと希望していたのであるが、それからそれへといろいろなことがあり、祝賀会を開くのに差し障りがが多くあって、このように、年も押しつまってしまったから考えたほどのことも出来ないがただ形式だけ朱雀院に精進の料理を差上げることとしたのである。
祝賀と言えば、大層立派な宴と思われるが、私の家も孫達が多くなりましたのを朱雀院に御覧頂きたいと、童達に舞などを教え始めましたから、その舞だけは予定通り行おうと、拍子取りを君以外に、誰に頼もうかと、私は考えあぐんで、ここ幾月も君が私を訪問しないので君のことを忘れているのであったよ」
と柏木に語りかける源氏の打解けて隔てがないような表情や語りに、柏木は心の中は申し訳なさと恥ずかしさで顔色が変わるのを、源氏に悟られはしまいかと源氏への返答も聞こえぬほど細々と、
「この月ごろ、御病気の方達で、心配事が多くあるご様子を私はお聞きして大変なことであると存じながら、春頃から私も何時も患っておりまする持病の脚気が気のつまる程鬱陶しく起り伏せっておりまして、起きあがるのも鬱陶しく日が経つほどにひどくなってきまして内裏にも参内することが出来ず、世間と縁を切ったような感じで家に籠もっておりました。
今年は朱雀院が五十のお歳になられる年であります。私が人よりも先御賀を御祝い申上げなければならない立場にありますことを、父が心配しておりましたが、父は既に、冠を東門に掛け車を惜しまず捨ててしまった、身でありますので、自分が中心となって御賀を主催する身ではなくなりました。私は身分が低いとはいえ、父と気持ちは同じであります、朱雀院の御賀を主催して志を院にお目にかけよ、と申すのですが、二宮が院にお目にかかる折に彼女の助けをかりて私も御賀を述べに参上いたしました。
朱雀院はいよいよ本当に幽寂な生活に入られて、御悟り澄ましなされて、盛大で立派な御賀の儀式をお待ちになるということは考えてはおられないと私は感じました。この度の質素なささやかな宴をかえってお喜びになるのではないでしょうか。」
と言うのを源氏は聞き、二宮が盛大な祝賀を催したことを聞いていたので、二宮の御賀の様子に関して盛大に催したと言わないところが、自分に気を遣っているなと、源氏は思うのである。
「ただ、三宮の賀は、このように簡略であるがこの様子を世間の人は、気持ちが入っておらぬと、感じることであろうがね。しかしお前が朱雀院の気持ちを察して、簡単にすませればと言ってくれるので私は安心したよ。夕霧は公務のことは、時と共に一人前になるようであるけれども、このように舞楽などの風流めいた遊びの方面はもともと熱心でなく興味がないようであまり関心はない。
朱雀院は芸能一切に堪能であるが、特に音楽方面の事は、御熱心に習練されて非常に堪能で精通しておられたが、出家をされてからは音曲は捨てられたのであろうか静かに聴かれる今の方が、却って緊張してしまうようである。お前も夕霧と共によく指導をして童達の舞を準備してくれ。芸能の道の師匠たちというものは、自分の持っている専門の道には達していても、それ以外の人を教える事などは全く情ないものであるからな」
と源氏が柏木に親密に頼みなさるから、柏木は嬉しいものの心苦しく気が引けてどう答えて良いかと少しばかり源氏に答えて、早くこの場を立ち去ろうと、思うからいつもは饒舌であるのが、こまごまと懇切でもなくて、ようやくの事で、源氏の前から、そっと退出した。花散る里の屋敷で夕霧が準備をして出演させる楽人や舞人の衣装などのことを、柏木の助言でやり直しをしたり付け加えたりした。夕霧が力を尽くして美しくしつらえた上に、柏木が一層細かい注意を加わえる、柏木はこの道に造詣が深いのでなる程、音楽の道に全く修練を積んだ人であるようであった。
今日はこのように練習の日であったが夫人達が見物に見えていたので、いい加減なことではならぬと、舞の童は御賀の日には衣装を赤い白つるばみに、薄紫色の下襲を着用するのであるが、今日の練習は、赤色に少し青味がある
蘇芳襲 を着用する。楽人は三十人、彼らは今日は白の襲を着用していた。辰巳東南の紫の屋敷の釣殿へ通ずる廊下を楽人の場所として、築山の南側から源氏の前に出場すると、その道中仙遊霞という舞のない曲を秦して。朱雀院の御賀であるので、仙洞の意を含んでこの曲を奏した。雪が少し降り始め春が近い梅が咲き景色は見るかいのある微笑ましいものである。源氏は廂内の御簾の中に、紫の父の式部卿の宮と鬚黒右大臣のみが廂の間に着座し、一般の上達部は簀子の上に着座していた。
今日は正式の御賀の宴でない日というので、宴席の食事は簡単な程度にした。鬚黒の息子で玉鬘の産んだ四郎、夕霧の雲井雁の子供の三郎、蛍兵部卿の孫二人計四人が万歳楽を舞う。この四人はまだ小さいのでとても可愛らしい舞の所作であった。四人とも高い位の家に生まれたので優雅な姿で着飾って舞い出た様子は、貴人の子供と見るせいもあり上品で上流人の味があった。
また、夕霧が惟光の娘を夫人にして産ませた二郎、式部卿宮の子供で、もと左兵衛督と言ったが今は源中納言の子二人が 、鬚黒の子供で多摩鬘が産んだ三郎が陵王、夕霧の子供太郎が落蹲 、それから太平楽、喜春楽などという舞を、同じ親族の若君達や、大人達なども加わって舞うのであった。源氏は夕暮れになって少しくらくなったので御簾を上げさせ遊びが核心に入り大いに盛り上がるなか、可愛らしく美しく着飾った孫達の舞を見事な舞の指導をした達人達に夕霧と柏木の優雅さを磨き込まれた美しい舞に、源氏は孫達みなが可愛く美しく立派であると
作品名:私の読む「源氏物語」ー53-若菜 下ー4 作家名:陽高慈雨