私の読む「源氏物語」ー53-若菜 下ー4
感激するのであった。歳を取った上達部達は源氏の喜ぶ姿を見て涙を流して感激していた。式部卿の宮も孫の舞を見て鼻が赤くなるほど感激の涙を流していた。主催者の源氏は、
「歳を取るにつれて酔うて泣くことを止める事が出来ないようになる者だなあ。柏木私の老いぽれをほほ笑んで見ているのが恥ずかしい。だが若いということはもう少しの間だけのこと、年月は逆さには廻らぬもの、歳を取るということは誰もが避けられるものではない」
と源氏は柏木に目をやる、柏木は周りの者は源氏の言葉に笑っているのに一人だけ真面目な様子で塞ぎ込んで、本当に気分も悪くなり、見事な舞楽も見ることが出来ない、柏木は自分だけを源氏は取り分けて指さして、酔ったふりをしながらこんな風に言われるのは人には冗談のようであるけれども、本人はたまらなく胸に応えているのであった。杯が廻ってきたが柏木は頭が痛くとても酒を飲むことが出来ないので、格好だけにして紛らすが、源氏がそれを見て注意しながら彼の手に杯を持たせ何回も酒を強いて飲ませると、柏木はどうしたものかと悩むのが又上品である。柏木はこの座にいたたまれず、宴会が終わらないうちに六条院を飛び出し、途方にくれて、大した酔いでもないのにこんなに苦しいのはどうしたことか、人目が気になってあれこれと神経を使ったので、のぽせあがってしまったのであろうか、そんなに自分は人を気にするほど気の弱い者とは思ってもいなかったが、自分は情けない男であるよと、柏木は思った。酒の酔いから来る気の弱さではなかった。
暫くして柏木は本格的に病の床についてしまった前の太政大臣の父、桐壺帝の右大臣の娘で弘徽殿女御の妹である
母親が心配して、「看護の届かない落葉宮邸に離れていては、全く気掛りな事である」と北の方の二宮に言うので、
父の屋敷に移したのであるが、妻の二宮が夫が父の屋敷に移ることを嘆くのを見て柏木もまた傍目にも苦しいものであった。柏木は、元気に暮らしていた頃は、二宮、落葉宮への愛情は当初からさほど深くはなかったから、それは気長に考えていれば、結局いつかは深まるであろうと当てにもならぬ事を当てにしているような特にそれ程深くもない、落葉宮(二宮)への愛情であるけれど、今父邸に移るのだと思うと「かりそめの行きかひ路とぞ思ひ来し今は限りの門出なりけり (今度の甲斐の国への旅はほんの一時の往来(ゆきき)と思ってやって来たが、今になって思へば、人生最後の旅の門出だったのだ)」という在原滋春 の歌が思いかび、これが最後の門出だろうと、さすがに柏木は悲しくなり、妻の落葉宮が後に残って嘆くであろうと親王として嫁いできて勿体ないから、心苦しく思うのであった。二宮の母一条御息所も娘を思い大変悲しみ
「世間の習慣として、親は親として立てるものとして置き申して、夫婦というものは如何なる時であろうとも離れなさらぬのが、いかにも普通の事である。このように、落葉宮に別れて柏木様が全快なさるまで夫婦が別れ別れで過しなさるとするならば、それが私は当然のことに気苦労であるから、それ故暫くここでこのままにして御養生をためして御覧なされよ」
柏木の側に几帳を挟んで寄ってきて柏木に言うのである。
「尤もなことです。私は物の数でもないつまらぬ身で、親王を妻として及ぴもつかぬ夫婦の間柄を承諾いただきましたことは、私が長命をして低い今の私の官位を、少しでも人並みになるよう努力をして昇進し、落葉宮に御覧頂けるかと、そう考えておりました。
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甲斐性のない上にこのような病になりまして、私の望みを妻の落葉宮に見せることが出来なくなりました。もう命の助からぬような気がしますがそれでも、死なれぬ気がするのです」
と柏木は妻の落葉宮の母親二条御息所と涙を流して別れの挨拶をするのであるが、急には父邸に行こうともしないので、柏木の母親が、御息所に悪いような気がして、
「どうして、親に何を措いても先ず逢おうと考えるべきである。私は気分が普通でなく少し寂しいと感じるときは、子供達の中でまず柏木を第一に頼りにしていますよ。だから今はどうして私の所に参らないのですか」
と恨みがましく言うのも又道理である。
「先に生まれたからであろうか、親は私をとても頼りにしてくれる。今でもやはり私を可愛がり、私が暫くでも会わないと親は心配なさるから、このように寿命もこれまでであると、思われる場合に親に逢わないということは、それは罪深いことである。もうこれまで最期であると、私が助からないと聞いたならば、落葉宮はこっそりと私の父邸に御越しなされて、私に逢って下されよ。落葉宮とは最後にもう一回逢いたいと願ってます。私は、妙にのろまな愚かな性質なので、何かにつけて落葉宮が私を冷淡であると思ったであろうと、今は残念でなりません。私はこんなに自分の寿命が短いとは思わず、落葉宮とは末永く暮らそうと、それだけを思って過ごしました。馬鹿な奴でした」
と涙を流して言い置いて父邸に渡っていった。落葉宮は泣く泣く自分の屋敷に遺って柏木のことを思い続けるのであった。
柏木の父前の太政大臣は屋敷で柏木を待ち続け、到着するや加持や祈祷やと大騒ぎして準備をする。そうは言うものの、柏木は急に危篤に落ちるというような状態でもなく、この幾月かは食事なども進まなかったのが、父の屋敷に帰ってきたからも、一層食欲がなくちょつとした柑子蜜柑なども口に入れようとせず、日にちが経つに従って
段々と息を引取るように見られることがあった。柏木のような、当代の勝れた博識の者がこのように重態であるから、世の人は彼の才能を惜しんで次々と見舞いに来る。帝から、朱雀院からも御見舞を始終いただき、柏木を失う事を大層惜しいと思われるにつけても、親達の気持ちはどうして良いか途方にくれるのであった。
源氏も柏木重体のことを聞いて、残念な事よ、と非常に驚いて 御見舞として、柏木だけでなく、何回も鄭重に父大臣にも御見舞の物を贈られた。夕霧は聴いて仲の良い従兄弟のことであるから柏木の病床近くに来て大変心配し悲しむのであった。
朱雀の五十の賀は十二月二十五日になってしまった。現在尤も有望な柏木のような上達部が、重体の病床にあるので、親兄弟をはじめ、多くの人達など、高貴の人達が力を落して悲嘆に沈んでいるので、何となく興ざめな状況であるけれども、御賀の事が度々の支障で次々に延びた事だけでも、朱雀院には失礼なことであるのに、ここに来て又延期するなどということは、祝賀の計画者である三宮がどの様に思うであろうかと、三宮の気持ちを察して源氏は可哀想に思いついに決行したのであった。
例の通り五十賀であるから五十個寺の御誦経が行われ、又、朱雀院の出家した山の御寺(仁和寺)にも摩訶毘廬遮那仏の御供養があった。摩訶毘廬遮那仏とは大日如来のことである仁和寺円堂の本尊である。(若菜下終わり)
作品名:私の読む「源氏物語」ー53-若菜 下ー4 作家名:陽高慈雨