私の読む「源氏物語」ー52-若菜 下ー3
と伊勢物語八十二段の言葉を交えて独り言で言い、揃って二条院へ向かった。
二条院に来て紫の死の噂は、確実ではない事であるから、弔辞を申すのも縁起が悪いであろうかと、柏木達兄弟は普通の御見舞として伺ったのであるが、来てみると中は泣いたり喚いたりの大騒ぎであるのを眼前に見て、彼の噂は本当であったと、自分たちも院の内の騒ぐ人達に混じってうろうろと只動き回っているのであった。紫の父上である式部卿の宮も二条院へ来ていて、放心した様子で奥に入っていった。式部卿は柏木達その他の公卿達が述べる御見舞の言葉を源氏に取次することが出来ないほど憔悴していた。夕霧が涙を拭いて立ち上がるのを柏木が、
「このように不吉なことを人が申しているのを聞いたので参上したのだが、信じることが出来ない。私たちは紫様が長い病気であると聞いてお見舞いに上がったのであるが」
「病が大変重くなって何日も過ごしておられた。ところが今朝方に急に命が絶えられて、これは物怪がしたことであると思っている。祈祷や読経によってなんとか息を吹き返されるようにと周囲の賢者達が努力されていると聞いて、何とかみんなは安心しているのである。全く頼りないことですなあ。どうも心配な事で」
とまたも夕霧は涙を流して悲しむ。柏木が見ると目も少し腫れているようであった。彼は夕霧が継母である紫の死を悲しんで涙を流すのを見て自分が源氏の正妻である三宮に思いを寄せて無理に関係を結んやましいところがあるので、夕霧とその継母紫上の仲を疑い、これは予想以上に悲しんでいると、夕霧を若干疑ってみるのであった。
紫の見舞に多くの公卿がこのように訪問してくるので、源氏がそのことを聞き、
「重病人が息を引取った様子であったからね、女房達が驚きのあまり心を落着ける事ができず、騒々しく泣き騒ぐ上に、私自身も落着く事がでぎず只今の所は平静な気持ちになれないので折角ですがお会いすることが出来ない状態です。わざわざ、このように御見舞下さった御礼は、いずれ改めて申しましょう」
と女房が源氏の言葉を伝えてきた。
柏木は(源氏の事を思えば)胸動悸が速まるので、このような騒ぎで院内が取乱れているようなことがなければとて源氏の許に参上することは出来なかったし、又参上しても何となく気が咎めて、考えてみると柏木が三宮に取った行動を隠そうとしている柏木の心中がどうも腹ぎたなかった。
このように険者の祈祷によって紫上が生き返ったのであったが、源氏は物の怪が恐ろしく、紫に更に又祈祷の数々を加えていた。この世に居られても、昔は気味悪かった六条御息所の御様子が、ましてこの世から離れ住む世界が変わり生死を隔てて居られるのを源氏は考えると、非常に恐ろしく気がかりでならないので、六条御息所の娘である秋好中宮を世話することまでも気が進まない。源氏は涅槃経の中の、「三千界ニ有ル所ノ男子ノ諸ノ煩悩ハ、合ハセ集メテ一人トナリ、女人ノ業障トナス。女人ハ地獄ノ使二テ、能ク仏ノ種子ヲ断ツ。外面ハ菩薩ノ如ク、内心ハ夜叉ノ如シ」という経文を思い出し女は皆罪障の深いものであるなあと考えてしまい、世の中総てが嫌になり、女達で奏楽をした翌日今まで話をしたこともなかった、紫上との二人での打解け話に、少し話題とした六条御息所の事を物怪が言い立てた故に、紫に襲いかかった物の怪は御息所であると確信して、中宮の世話が少々うるさく面倒に思うのであった。
生き返った紫は、髪を切って出家したいと真剣に考えて源氏に頼むので、源氏も「受戒の功徳で、体の回復する力も出ようか」と思って、紫の髪の頂に形ぱかり鋏みを入れて髪を切り、五戒だけを受けさせた。「五戒」は、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の五つの戒めである。御授戒の僧が、受戒の功徳の勝れている趣を、仏にその趣旨を三宝および大衆に告白する表白にもしみじみと、尊く感ずる文句がまじっておるので、源氏は人の見る目もきまりが悪い程、紫の側に受戒の場合も寄添って涙を流して紫と共に仏に念じる姿は
、この世で最高の賢者である源氏でも最愛の女、紫が、出家するということに乱れる気持ちがどうしようもないという現実に直面しては、とても精神統一が出来ないものである。
ただ、どんな手段を講じても紫を救い、この世に引き止めよう、ということだけを昼夜となく考えていた。気が抜けて、ぼうっとしたようにまで源氏は痩せてしまった。五月にはいると他の月よりも陰気な日が続くので紫の気分は爽やかにはならないが、以前よりは少し回復したように見えた。しかし時々気分が悪くなり悩むのである。物の怪となった六条御息所が源氏に、自分の現世での罪を償うように言うのを、毎日源氏は法華経を一部供養のために捧げ、その上荘厳な仏事を何回も催した。紫の枕元では高僧が絶えず妙なる声で読経を繰り返しするようにした。しかしこれほどまでしても、現れはじめてから、時々現れて、二度と現れないなど悲しそうな声で言うのであるが、なかなか一向にこの物怪は去ってしまわない。
暑い日は紫は息も絶え絶えとなってますます弱ってしまう、源氏はその紫の衰弱ぶりを見て言葉に言うことが出来ないほど憔悴してしまった。その悲しむ夫の源氏を見て紫も弱った体でも心配し、
「この世の中に私がいなくなってしまったとしても、自分は一向に未練な事は残るまいと思うけれども、源氏様がこんなに御心配なされ途方にくれなさるのに、もし私が死んでしまえ、思い遣りがない女であると思いになるに違いない」
と、彼女は源氏の憔悴した姿を見ながら考えて気を取り直し、薬湯などを少しずつ飲むようにしたのであろうか、六月にはいると、時々起きあがれるようになってきた。その姿が美しいと誰もが見守るのであるが、それでも美しい人は早世するという、長命は困難と、月の満ち引きを中心にした考えの盈虚思想で人々は考えるので、源氏は心配でとても六条院に帰ることが出来ないでいた。
六条院に遺された三宮は去る日の夜思いがけなかった柏木との情事を心配し嘆いた頃から、体の調子が今ひとつしっかりしないで心配をするのであるが、その状態が悪くもならないが、五月頃から食事が喉を通らず青ざめて、やつれてきた。柏木は気持ちがどうにもならず、無闇に逢いたくて思いあまる、そのようになると六条院に逢いに来るのであるが、二人の関係が終わると、夢見るように三宮を眺めていた。三宮は二人がこのように会うことはまずいことであると考えていた。源氏のことをあれ以来恐れていて、彼女は柏木の人柄は源氏と変わりはないと思ってはいる。彼は源氏と同じように優雅でありあでやかで美しいから、普通の人に比べれば勝れている ことは認めるが、三宮にとっては源氏から幼いときより抜きんでて清らかで優雅な源氏に慣れて親しんできたので目前に柏木を見ていると、どうしても親しい感情が湧いてこないで、この男にこんなに妊娠させられて、これからずっと悩み続けるのは、考えても気の毒な巡り合わせとしか言えない。乳母達は三宮の妊娠を感じていて軽率なことをしてと、
「源氏様のお出でになるのが少ないために」
と、お互いに小声で呟いている。
作品名:私の読む「源氏物語」ー52-若菜 下ー3 作家名:陽高慈雨