私の読む「源氏物語」ー51-若菜 下ー2
お前には須磨へ蟄居したあの一件の別れ以外には心配というものは与えなかったように思う。帝の后、その位よりも低いが地位のある夫の婦人達にも心配事はあるものである。女御更衣に至っては帝の寵愛を得ようと争いあうのも平安な暮らしとは言えない、親元で暮らすようなお前の日常のような暮らしは他にはあるまい。このように人に勝れた毎日が送れるのは前世の因縁である、という事はお前は考えたことがあるか。お前の考えている以上に、私が三宮の許に通うことは、お前の気分としては苦しいことであろうが、三宮を六条院に招き入れたことについては、私がお前をすごく気遣ってのことであるとはお前自身の事であるから多分気づいてはいないであろうな。たといそうであっても三宮がここに移って来ても私の考え方は分りますでしょう」
「貴方がおっしゃるとおり、どうでもいいようなつまらない私の身には、身分に過ぎた現在の幸福であると、他人から見れば思われるでありましょうが、私にはこらえきれない嘆かわしいことが次々と付き纏ってきます、それがまあ、私自身緊張もし今まで生きてきたとも言えるでしょう」
と紫はこの言葉に言残りの含みが沢山ありそうで彼女の奥ゆかしさは、見ていてもきまりが悪いようである。
「このまま健康に生きていくのが難しいような気がいたします。今年も厄年であるのを知らない顔をして,後生を願わなくて過ごすのはどうも気掛りな事です。貴方に以前も申上げました私の出家のことを、なんとか御許しがあるならば嬉しい事でござりましょう」
と源氏に紫は頼むのである。
「それはとんでもないお前の考えである。出家をして私から離れてしまっては私一人取り残されて何の生き甲斐があるということですか。ただ、このように、何という事もなく平凡に過している年月であるけれども、お前と毎日一緒に暮す嬉しさばかりは、いかにも私にはこれ以上の幸せというものがない。やはりお前に対する私の変わらぬ愛を最後まで見届けなさい」
と簡単に言う源氏の言葉を聞いていて、又気休めのことを言ってと、紫は気が休まらず涙ぐむのを源氏は可愛らしいと見て、色々と紫の気を紛らわそうと言葉を選んで言う。
「多くの婦人ではないが気質や振舞がそれほどに悪い女ではないと私が見立てたなかに、本当に性質が善良で落ち着いた人が一番すてきな女性だと思うのですが、それがなかなか望んでいても見つからないものなのです。
夕霧の母の葵は十二才の元服の夜に私は正妻として娶ったのであるが、私は年上の彼女を大切に扱い大事にしたのであるが二人の仲は思うようには行かなかった。そのまま仲を隔てた関係で彼女を亡くしてしまい、今でも彼女が可哀想でならないのである。しかしそのことは自分だけの落ち度とは私はどうも思えず人には言えないが時々思い出してはそう考えているのであ
る。葵は端正美麗で重々しくて立派な高位の婦人であったことは間違いのないことで、その点が物足らないなあと、思われることはなかったのであるが、ただあまりに整然とととのったのが堅い感じを受けさせてね。少し利口すぎてと、言っていいような女で、こうして他人に話すと皆が申し分ない女だと言うのであるが、さて妻として添い寝をすると柔らかみがなく面倒な気のするというような女性でしたよ。」
源氏は自分が関係した女を紫に語り出したのである。聴いている紫の気持ちなどは推察もしなかったのであろうか、
「秋好中宮の母御の六条御息所という方は、なかなかの才女で何気ないようで優雅である女としては第一人者と言う思いはあるが、生前は私と関係を持ったのであるが、世話をするのが大層難しい方で、気苦労であった。それで私もそうそう足繁く訪れることもなくそのことを恨まれたのはいかにも御息所に私が冷淡であったから尤もであると私は考えていたのであるが、御息所はその気持ちをその儘、何時までも思いつめて私を深く恨まれたのは本当に辛いことであった。御息所と向かい合っていると二人とも互に油断も隙もなく緊張しており、それで気づまりで自分も御息所も、お互に楽な気持ちでお互いの体を確かめ合うということが出来ず、そのため心を解きほぐした毎日を睦まじく暮らすことが、御息所に対して私が遠慮をし、また彼女もそのようであったから、とうてい出来ることでなく、遙かに年下であるのに自分の方から打解けて甘えていけば軽蔑せられるであろう、なんて考えて体裁を繕っている間に、いつか二人の仲が疎遠になっってしまったのであるなあ。御息所は私との仲が噂となって、元春宮の夫人という身分柄、自分が浮気な軽々しい女と言われてしまったのを悲観されてしまったのが私は気の毒で、なる程御息所の人柄を考えても、その悲嘆は総て私にある気がして、その儘で終ってしまった事に就いて御息所を慰めるためと言うか罪滅ぼしにと言うのか、娘の秋好中宮を、当然中宮になられても遜色がない方ではあるが、藤原氏以外の人を冷泉帝の中宮に無理なかたちで現在のように引き立て、女御などを望んで、遂げられなかった女の一族の人の恨や、世間からの悪い評判をも無視して面倒を見ているのを、六条御息所はあの世から私を見直されたであろう。今も昔も私のよい加減不用意な気まぐれで、多くの人を不幸にしまた自分自身も傷つけて、私は本当に色々と経験したことであるよ」
と過ぎ去った過去に自分と関係をした女のことを少しづつ紫に語る。
「明石女御の後見である明石の上は、それ程の身分ではないと、私は初めから軽く考えて接し、かつては気の置けない気楽な女として遊び心のような交わりであったが、今になってみると心の底が分からなく、限りなく奥深い所のある女であると思っている。彼女は人との接し方は柔らかく大らかに見えるが、自分の気持ちは底に持っていて、どことなく気の置けないところがある。
と明石の上のことを言うと紫は、長い源氏の話を無言で相づちを打ちながら聴いていたが、「貴方のお囲いになってる他の女の方はお会いして話したことがありませんのでわかりませんけれど、明石の上には女御のこともあって、おりおりお目にかかっていますが、それはそれは聡明で御自身の感情を少しもお見せにならないのに比べて、だれにも友情を押しつける私をあの方はどう御覧になっていらっしゃるかと、きまりが悪く思っていますは。しかしとにもかくにも明石女御は私をいいようにだけ解釈してくださるだろうと、思っています」
紫はあれほど、気にくわない女と、かつては嫌っていた明石上であるのに、人柄がよく分かると、今ではこのように心を許して互に会話などをするにつけても、明石女御を可愛がる、真実の心であると、源氏が思う故に二人の真心が有り難いので、
「紫、お前は心の綺麗な女であるが、相手によりその時の事情によっては打解ける時と打解けない時と二つをさすがにうまい工合に心遣いをするなあ。私は女達に時々試してみるが、お前のような性格の者は居ないよ。だが時々顔色を変えるところがあるね」
と源氏は冗談のように笑いながら言う。紫が嫉妬をするときのことを言っているのだ。
「三宮によく七弦琴を教えてくれた、有り難く思うよ」
作品名:私の読む「源氏物語」ー51-若菜 下ー2 作家名:陽高慈雨