私の読む「源氏物語」ー50-若菜 下ー1
源氏は、昼間は人の出入りが激しいので、たいした技法ではないけれども絃を押えてゆすったり押したりをするには周囲が気ぜわしく落着かないから、夜になって屋敷内が静かになったところでゆっくり落着いて、奏法の心得を教えよう、と考え紫には三宮に教える頃になると、席を外す了解を得て、毎日昼のとなく夜となく七弦琴を指導した。明石女御にも紫にも源氏は七弦琴を教えることがなかったので、源氏が三宮に教授している折に、普段の演奏で聞かないような珍しい曲などを三宮が源氏から教えられて弾くであろうから、聞きたいと思い、明石女御は特別に帝から、少しだけでもと、暇をもらって六条院へやってきた。
明石女御はすでに二人の子持ちであるにもかかわらず、また妊娠していて五ヵ月程になっていたから、宮中の神事などを口実にして、里の六条院に帰ってきたのである。事実、十一月は神事が多い、出産は穢れであるからその神事を遠慮して里に帰ることは普通のことであった。宮中での出産は許されなかった。十一月が終われば内裏に戻るようにと言ってくる夫の帝であるが、度々の伝言があるにもかかわらず明石女御はこの里帰りの機会に、毎夜毎夜こんな面白い演奏を聞けるのが羨しく思い、父の源氏はどうして私に七絃琴を教えてくれなかったのかと、情なく思うのであった。
冬の夜の月を眺めて楽しむのが普通の人と違って源氏の趣味であるから、気持ちが揺れる夜の雪が光に照らされているときなど、この季節にふさわしい曲などを、弾きながら周囲に控えている女房達の中に音楽に少しばかり造詣のある者達に琴をそれぞれ弾かせて合奏して遊ぶのである。年末には紫達は新年の準備に忙しいので、こちらあちらの源氏の囲い婦人方の春着の支度、染めて、織って、裁って、縫ぅなど、の忙しさに、女房達の作業を見て指導する用事などもあるから、
「春になって、ゆっくりとした夜になど三宮の琴を聞かせていただきましょう」
とか言っているうちに年が変わって新年となった。
朱雀院の五十歳の祝賀会は、まず朱雀院の長子である帝の主催する祝賀会から開くということが第一で、こちらの計画が色々と重なっては不都合なことであると源氏は思い、三宮が考える祝賀会を少し先にすることにした。そうして源氏は二月の十日頃に開催しようと決定し、当日演奏する楽人や舞人が毎日六条院へ集まり練習に余念がない。源氏は三宮に、
「紫上が、いつも聞きたがる貴女の七絃の御琴の音に、紫の女房たちの、箏や琵琶の音を合奏して何とかして女ばかりで演奏する女楽を試みたいものである。現在世の名人と言われている者達でも、決してこの六条院の女達の演奏にはかないますまい。私も音楽というものをきっちりと修練してはいませんが、如何なる事であろうと、知らないことがないようにと子供の時から思っていたので、世の中に居る色々な道の有名な人には全部、また高貴な家々に伝承することも、そうですあらゆる事を残さず修練した中で、とても造詣が深い名人という者にはとうとう会うことがありませんでした。私が修行したその昔より、またこの頃の若い人はその腕はおいといて、酒落たり、気取ったりしてその技が、浅薄になってしまっています。その中でも特に七絃の琴は、人気がなくなってしまい、それを学ぷ者は今ではなくなってしまったということである。だから貴女の七絃琴の音ほどの腕前の人は、今はいないと言っても良いでしょうよ。」 と源氏は三宮の琴を褒めるので、三宮はその言葉を正直にとって嬉しく、源氏がこれほど褒められるほどの腕前になったのだ、と思うのであった。三宮は二十一、二歳になったのだが、いまだにひどく成長が遅れていて、全く子供みたいな感じである、体は人に遅れてほっそりと弱々しくて、ただ可愛らしいというだけが取り柄である。源氏の許に嫁いだのは十四歳で、今年は二十一歳である。
「父上にお目にかかることがなく年を経てしまったのであるが、別れたときより大人になったと、父上が感じなさるように気張ってお会いするように」
と源氏は何くれとなく注意をするのであった。
「このように色々教えなさるから、源氏様のような方が夫でなければ、成長がない姿を隠すことは出来ますまい」
と女房達は三宮のことを陰で言っていた。
正月二十日近くになると、空の景色も何となく春らしい様子になり、吹く風も暖かく、源氏の目前の梅も満開になっていく、そこらの春咲く木々のつぼみも膨らみ霞がかった日が続くようになってきた。
「日にちが進むと朱雀院の五十の祝典も近づくので、誰もが忙しくそわそわと落ち着かないことであろう。だから、祝賀会近くなってもし合奏などするとその絃楽器の音も祝典の練習と、人々が何かとあれこれと批評めいたことを言うであろうから、いまのこの静かな時に合奏をして御覧なさい」
と源氏は言って紫を三宮の部屋に行かせた。紫のお供をすると女房達誰もが希望するのであるが、紫は年は取っているけれども音楽に深い理解のある女房だけを選んで従わせた。
舞をする女童たちは、顔のすぐれた者四人を、赤色の上衣の桂に、桜襲は表は白、裏は赤または蘇芳の汗杉をその上に着せて、婦人・童女の下着と上着の間に着る間着(あいぎ)で薄紫色の模様を織出した絹織物の袙、晴れの時に用いる表袴は緋色で紋様を浮かせて織った浮文の綾絹、紅色で、砧でしっかりと打って艶を出した単衣(下着)を着て様子も態度も、勝れている者ぱかりを紫は召し連れてきた。
明石女御も身重ではあるが、部屋の飾り付けなどは正月のことで立派に飾られた三宮のところに、引き従った女房達が、三宮や紫の女房達に負けまいと、競争するようにして華麗を極めた衣装飾り物などは男達が見たら吃驚するようなきらびやかで派手派手しいものであった。従った女童は、青色の上衣に、蘇方襲(表は薄赤、裏は濃赤)の汗衫(かざみ)を着て模様を浮織りにしている唐織物の綾の表袴を着け。袙は山吹色に染めた唐の綾(綺)を、皆が同じように揃え着ている。
明石の上の女童達は三人とは違って大げさな姿でなくて、上衣は紅梅襲が二人、桜襲が二人、汗衫は、四人ともみな青磁で、袙は濃紫や薄紫で、単衣は打って光沢を出した所など目立たないが何とも言う事がでぎない程美しいのを着せていた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー50-若菜 下ー1 作家名:陽高慈雨