私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4
蹴鞠の技に次第になれて行くにつれて、蹴り上げる回数も多くなり貴人といえども額に汗をかき冠が少し乱れて傾いていた。若年ではあるが夕霧も位の高いことを考えると、どうも、何時も沈着なのに似合わず遠慮無く騒ぎ廻って活躍しているなあ、と端からは見える、人より若く優雅で表が白、裏が紅の直衣が糊気が少し薄くなって張りがなくなったのに指貫の裾の方を少しばかり物を包んでいるように膨らませて、形だけ引上げてはいるが、若い人達は裾を高く引上げて軽々しく見えるのに夕霧は軽々しくはない。そんな夕霧のうち解けた姿に桜の花が散りかかると、梢を見上げるようにして、たわんでいたんでいる桜の枝を、夕霧が少し折って寝殿の南階段の中ほどに座っていた。柏木が続いて来て、
「桜の花は乱れ散っている、風は桜を避けてふけ」と古今集の藤原好風「春風は花のあたりをよぎて吹け心づからやうつろふと見む」
の歌をもじって言いながら三宮の対を横目で見ると、こんな蹴鞠などで若い人々の集まった折でも何時もと同じように、格別に用心もせずしまりのない女房達のいる様子がして、その女房達が男の気を引こうと衣裳の端をいろいろと御簾からこぽれ出しているのや御簾を透かして見える女房の影が雑然としてひらひらと閃いているように見えるので「道祖神ならぬ春の女神佐保姫に手向ける幣袋であろうか」と思われるようであった。几帳などが
雑然としまりなく部屋の片隅に引きのけてあるままで、部屋の中もあらわに見えるから女房達の様子も近く見え、どうも世間じみて男にも馴れてとかなあと、柏木が見ていると、唐の国から渡ってきた猫の小さくて可愛らしいのがその猫よりも大きいのに追いかけられて御簾の端から飛び出してきたのに女房達が驚いて、
「そらそら大猫めが」
と御簾の中で大騒ぎで動いている様子や、衣擦れの音がやかましく耳に入ってきた。猫はまだ人間になついていないようで長い綱がつけられていたが、その綱が御簾の端に引っかかって綱に纏わり付いたので女房達が、逃げるよ逃げるよと、誰彼と勝手に引っぱる間に、三宮の座っている御簾の片端が大っぴらに引き上げられているのに気がつく者がなかった。簀子に近く柱の所にいた女房達も、唐猫の逃げ出したのに気を取られてしまい引き上げられた御簾を直そうともしない。
その様子を桂木ははっきりと見ていた。片隅に引寄せてある几帳のそばから少し奥に入った所に、貴人の女の平常の服装である桂姿で立っている女が見えた。寝殿の南正面の階段から西側の二の柱を置いて東の端であるから、目を妨げる何の障害物もなく、立っている女性をまともに見ることが出来た。
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纏っている表着は表が蘇方、裏が縹(はなだ)である紅梅襲の桂であろうか、沢山重なっている襟や裾の重なり目に見える紅や紫の濃い色、薄い色、その他色彩の相違が華やかで、色々の色彩の紙を重ねて綴じた草子の小口のように綺麗に見えて、その上に桂の上に着る桜襲で模様のある絹の細長と見えるのを着ていた。髪は先端まではっきりと見える、糸を縒ったように長くなびいて裾はふさふさとしていて美しく身の丈は七八寸に見えた。小柄であるので着ているものが裾を長々と引いており、体は大変細いようである、髪のかかった横顔は、何とも言いようのない程、上品で可愛らしい。夕暮れの光であるから、はっきりせず奥が暗い気がするのがもどかしく柏木はもう少しはっきりと見えないかなあと飽くことなく三宮を見つめていた。
鞠に熱中している若者達の鞠が高く上がる度に桜の枝をふるわして桜が散るのを惜しいなどと気遣わずに蹴鞠見物に熱中していている人々が、猫の綱のために御廉がまくれ上って三宮が隠れることもなく丸見えであるのを知ることもない。柏木は振返って外を見る三宮の顔つきや身のこなしなどを、おっとりとしていて、若くて可愛い人であるなあと、見ていた。
夕霧も気がついて三宮の対へ近寄るのも工合が悪く困った、御簾のまくれ止ったのを直しにそっと近寄るにしても、それも却って、大層軽率な行動であるからここはただ気がつくようにとわざと大声で咳をすると、三宮は気がついて奥に入っていった。
夕霧は三宮に咳払いで注意したのであるが、とは言うものの自分の気持の中にはまだ三宮を見たかったと思う気持ちが充分のこっていて飽き足らない気がしていたけれども、三宮が自分の注意で猫の綱を放したから御簾が下りて三宮が見えなくなった、と夕霧は思わずがっかりした溜息をついていた。夕霧にまして柏木はすっかり三宮の姿に心奪われ胸が一杯に膨れあがり、あの女は誰であろう、大勢の女房の中で、一人だけ目立った桂姿から見ても、当然女房ではない、あれは三宮本人だ、と確信した。柏木は、そ知らぬ顔に振舞っていたけれども、側にいる夕霧は、柏木がきっと三宮に目をつけるだろうと、三宮を気の毒に思うのである。 柏木はどうにもこうにも遣る瀬ない気持の慰めに三宮の飼い猫で逃げ出したのを自分の許に呼び寄せて抱き上げると良い香りがして三宮が桂衣に薫きこめている香が猫に移り香しいにおいがして猫も可愛らしい声で鳴くのを、これが三宮本人であればなあと、桂木が思うのは彼が女好きの性格であろう。
源氏は夕霧・柏木二人を見て、蹴鞠の場所が三宮の対に近いのが軽率であった、と考え、「あちらの方に座を変えよう」
と今までこの東対の西南の隅の欄干の所で源氏も螢兵部卿宮も見物していたのを、東の対の南面の廂の間の方に移動していったので夕霧も柏木その他の若い者達もそれぞれ源氏について移動した。蛍宮も座り直して夕霧と話をし出した。蹴鞠をしていた若者達は東の対の簀子に円座を持ってこさせて座り、蹴鞠の際に差し出す事になっている、餅米の粉に甘茶をかけて丸くかため椿の葉二枚に挟んだ「椿もちひ(餅)」や梨・小さな蜜柑で酸味のきつい柑子などをそれぞれ箱のふたに載せてあるのをわいわいと楽しくしゃべりながら食べ始めた。そのうちに適当な干魚・干鳥を摘みとして酒が出た。
衛門督である柏木はひどく沈みこんで、ともすると桜の花の木を見っめて思いに耽っている。夕霧はその桂木の姿を見て、柏木の事情を知っているので、先刻妙なはずみから三宮の御簾越しの影を、柏木は思出している事でもあるのであろうかと、想像し、あのように簀子近くに立っていた三宮の行動は少し軽率であると、柏木は思っているのであろうか
と、彼の気持ちを考えてみた。そうでなくともこちらの紫の行動は軽々しくはないのにどうして三宮は軽々しいのであろう、世間から想像されているほど源氏の三宮に向かう情愛は薄いようであるなあ、とタ霧は思い当るので、三宮は自分に対しても人に対してもどちらにも注意が足らず幼稚なのは、上品とは言えずむしろ心許ない思いで三宮はたいした女ではないと思うのであった。
柏木は参議で衛門督を兼ねていた。参議になると宰相とも呼ばれる。彼は三宮の欠点を見抜くこともなく、思わぬ事から御簾の隙間より三宮を見ることが出来て、思い焦がれていた三宮といよいよ思いが達成する兆しであると喜び頭の中は三宮で埋められてしまった。 源氏は柏木に昔のことを話しだした、
作品名:私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4 作家名:陽高慈雨