私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4
「おまえの幸運に喜び、今の貴女の地位をも、分に過ぎて較べるものがないと思っておられるようだ。しかし私はそうであるけれども、夫の山籠もりがしみじみと悲しくて、胸の晴れ晴れしない侘びしい思いも、人よりも多く感じています。私は物の数でもないつまらない人間であるが、かつて、夫とともに長く住み馴れた都を捨てて田舎の播磨におちぶれて行った事についても、世間の人と違った前世の運であることよと、悲しく思ったが、今回のように生きながら同じこの世で、夫入道と離れ離れになり、別れて暮らさなければならないそんな宿命であったとは、思っても見なかったことで、その上、同じ蓮の花の中に当然住むべきはずの死後の期待まで前から考えて暮らして来て、それが急に、おまえに、このような源氏様に都に迎えられるという考えられぬ事が出て来たので一旦は都を捨てたこの身が再び帰ってきたということよ。今回若君誕生という目出度いことに出会い喜ばしいこととはいえ一方では、夫入道の事への気掛りで悲しい事が私につき纏って絶えないのに、とうとう再会も出来ない遠くに行ってしまい別れたまま死に絶えるとは情けないことである。あなたの父上の入道は俗人の時でも人とは違った生き方をする人で世を拗ねていたようであったが、若い者同士が互に力を併せて生きていくというのが結婚というもので、私達二人は、どんな場合でも変らないと類のない程に固く夫婦の契を交わしていたので、お互に深く頼りあっておりました。ところが京と明石というほんの近いところでありながら逢うことも出来ずにこのように別居をしなくてはならないのだろう」
と娘の明石の上にしゃべり続け、悲しい泣き顔を明石の上に見せる。それを見て明石の上も悲しくなり涙がこぼれ、
「他人より優れた栄誉や栄華を得ることになろうと、私は今考えてもしない。私のような普通の人間はどんな事に関しても、はっきりと表向きに明石女御の実母で若宮の祖母であるなどと名のって生きていくということは当然あるはずでもないのであるが、そうかと言って、今のように別れ別れになり文を通わすことも出来かねるような境遇も悲しいことである。そのようにして文徳が言うように父入道が、僧一人と童二人を供に連れて奥山に俗界から絶縁して籠もってしまわれたならば、人の身も、この世の中も、無常であるが故に父上がいずれお亡くなりになられても、これが我々の宿命と受け止めるべき事でしょう」
と尼君と明石の上は悲しいことを話し続けて夜を明かした。
「私が昨日女御の側に付き添っていることを源氏様はご存じであったのに、母上のお呼びで急にこちらに参ってしまい、軽率な行動をしてしまったようである、私のことはどうでもいいことであるが、若宮に付き添っている明石女御に何事かが起こってはと、大変なことで、こうのような気儘勝手な行動はしてはならないのである。」
と言って夜明け方に南の対の明石女御方へ帰って行ってしまった。その時に、
「若宮はどうしておられるであろう。お目にかかることは出来まい」
と尼君は、また悲しくて泣くのであった。
出て行こうとした明石の上は、
「じきにお目にかかれましょう。明石女御も尼君のことを心配されて噂されていますよ。源氏様も時々、万が一、この世の中が私の思う通りに行き若宮が春宮に御立ちなさるならば、今から言うのはあまり感心しない予言であるけれども、尼君がそのときまで生きておられるならばと、言われることがあります。
源氏様はいかがお考えのことでしょう」
というと、尼君はかすかに笑って、
「そうそう、それを聞いて嬉しい。源氏君が長命せよと仰せられるのであればこそ、悲しかったり嬉しくなったり、私の運命は人様と違って色々でありますな」
と言って喜ぶ。尼君は、入道から送られてきた多くの願文を入れた文箱を明石上に持たせて帰らせた。春宮より明石女御に早く帰参せよとの言葉が伝えられたので、紫は、
「東宮が、早く帰りなさるように思われるのは、若宮が授かって、春宮はどんなに待ち遠しく思っておられることであろう」
と言って春宮の許に若宮を密かに連れて行くことを考えた。明石女御は今は若宮をもうけて御息所と呼ばれるようになっているが、一旦東宮に上がればこの後暇を頂くのが大変なことを知っているので、このまま暫くこの里の家である六条院に滞在したいと思っていた。歳が若い上にお産という大事を成し遂げた体であるので少し顔が痩せて一層艶やかに美しくなっていた。それを聞いて明石の上は、「参内して春宮に以前のようにお仕えなさるのは大変なことでしょうから、もう少し養生してから参内されてはいかがでしょうか」
と気遣って言うのを源氏は、
「このように痩せてしまい東宮にお会いするのも春宮にはかえって、明石女御をしみじみとその苦労が分かって、一層愛することでしょうよ」
と言って紫の部屋に行ってしまう。その夕方に娘の明石女御の周りに人が少なく落ち着いている静な時に、明石上が明石女御を訪ねてきて、父入道からきた文箱のことを知らせた。明石の上は娘に、
「貴女が帝の后である中宮になるまでは、この文箱を見せずに隠しておこうと思っていましたが、この世というものはどうなるか分からないものですから、気がかりでもありますからお見せすることにいたします。何事でも、貴女ご自身で決めることが出来ない前に、もしも、私が倒れてどうなるにしても死んでしまうような状態になれば、私の身分が低いから臨終に貴女と会えないことがはっきりしていますから、私が元気なうちに貴女にとってはつまらない事かもしれませんが、伝えておきましょう。下手な字の文ではありますが、これも一緒に見てください。お祖父様のこの願文は貴女の手元の厨子に入れて置いて、必ず何かの機会に中を見て、この願文の中に書いてある願ほどき(礼参)の事などは必ずなさるように。
他人には漏らさないように。貴女も若宮の母となったからには、もはや私が付添いすることもあるまいと、考えていますから、私もお父上入道を慕ってこの世から身を隠そうと思うようになっていきますから、何かにつけても楽しくは考えられませぬ。紫の上のことを疎略に考えるようなことはしなさんな。紫上の性格は本当にこの世界では珍しい情深い方ですから、私には紫の上が私よりも長生きなさると思っています。私が貴女の側に控えることを命じられても私はとうていお受けできる身分ではありませんから、貴女のことは貴女が小さいときから紫の上にお願いしてきました。しかし私はそのことをいかに紫の上の性格がよろしいと言っても、紫の上はこのように優しい心でもって育てられるとは思ってもいませんでした、だが今では過去もこの先未来も安心できると確信することが出来るようになりました」
と明石の上は娘に多く語る。娘の明石女御は母の言葉を涙を流して聞いていた。
二人は親子としてもっと気楽に話したりすればいいと思うのであるが、明石の上はやはり娘であっても東宮の女御であるということから明石女御の前では何時も礼儀正しく畏まった様子でいて、やたらに遠慮がちに行動をするのであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4 作家名:陽高慈雨