私の読む「源氏物語」ー48-若菜 上ー3
薄雲女院がこの世にいないのでどのような催しも主催しても参加しても張合がなく、寂しく思っているので、源氏のみを誰にも秘密であるが、実の父であるので定まった慣例通りに形に表して堂々と父子としての礼を尽くして見たいのであるが、そのようにして、源氏に見せることができないのを、常に気にしているのでこのたびの源氏の四十の賀には是非とも行幸したいと源氏に申すのであるが、
「世の中が混乱するようなことは決してしないように」
と源氏に何回も注意されたので悔しいけれども思いとどまったのである。
十二月(師走)の二十日頃に秋好中宮が六条院の自分の屋敷に里帰りをした際に、今年は正月から始まって十月まで色々な祝賀会があった。そこで今年の残りの月を更に祝賀するということで、古い都奈良の東大・興福・元興・大安・薬師・西大・法隆という南都七大寺へ、御読経の布施として、白布四千反。白布四千反・白い練絹四百疋と四十賀に縁を持たせた数を、六条院に近い四十寺に奈良と同じく御読経の布施として絹四百疋を納めさせた。中宮は母の六条御息所亡き後伊勢齋宮から都へ戻り後ろ盾のない自分を大事に育ててくださり、帝の中宮にまで登り詰めた源氏の有り難い気持ちを、充分に分かっていながら、どうかして自分の源氏に対する感謝の気持ちを表そうと考えていたので、源氏四十の賀というこの好機を逃さず。亡き父母の源氏に対する感謝の気持ちも併せて寺への寄進をしたのであった。
源氏はこの度の催しに朝廷からの志を無理に断ったこともあり、秋好中宮にあまり大事な事をしないようにとこっそりと注意した。
「四十の賀ということは、私が聞いているところでは四十からの余生は長くはないということである。この度は世間の評判となる盛儀を止めてくださって、後年本当に祝うに十分な年齢、人生五十という年齢を祝ってくださいませ」
と誰彼に言うのであるが、誰一人聞こうともせずに大きな祝賀の宴を開いてしまったのであった。
紫が主催する祝賀会が終わると、秋好中宮が自分の住む六条院の東北の寝殿を会場として先に行われた祝賀と変わらずに挙行され、参加した上達部への祝いの禄などは、中宮・春宮の大饗に準じて行われ、紫上の賀には楽人だけに禄を被(かず)けたが、今回は中宮であるから、二宮の大饗の例に準じて、親王達以下にも禄がある。親王には女の装束、まだ参議になっていない四位 五位の殿上人達身分のない殿上人には童女の服一かさね、巻いた絹(腰に挿して退出するから腰差という)などを次々と与えた。
源氏には清楚な装束、中宮の父宮が使用された有名な作者の石帯、太刀これらは代々中宮の家に伝えられた歴史的にも有名な物であったのである。昔から伝わる世の絶品として有名な物全部はその殆どが源氏の祝賀に集まり贈り物として差し出されたようであった。
昔からの物語に贈り物を全てを数えたてて書き続けているものもあるが、贈物を一つ一つ書き立ててはごたごたとして大層煩雑な文章になるので、沢山の贈り物の由緒などをいちいち数えて書き連ねるのも面倒なことであるのでここらで省略する。
冷泉帝は実父親源氏の四十の祝賀会に出席できなかったことをどうしても残念でたまらないので、夕霧を呼んで、そのころ病で倒れた右大将の後任に夕霧を急遽昇任させた。源氏もこのことを聞いて喜びひとしおで、
「このように夕霧がにわかに昇進するとは、身に余る光栄でありますが、私が思うには少し早すぎるのではないでしょうか」
と謙遜してお礼を言うのであった。
六条院の東北の区劃花散る里が住んでいる、そこの寝殿で帝は夕霧に命じて源氏の四十賀を開くように指示する。夕霧はなるべくひっそりと事を運ぼうとするが、帝からの命令であるので、帝の主催の会はやはり今までの祝賀会とは比べものにならない盛大な祝賀会になった。帝主催の会であるので、招かれる人も以前の会よりも範囲が広く、朝廷の貴重品や道具類などを管理する内蔵寮 や畿内から納めた米を収納する穀倉院から内裏で行われる賀と同様に蔵人頭の指示によって運び出されて祝賀会に使用された。強飯を卵形に握った屯食も、朝廷の祝賀の宴と同じようにして、頭中将が帝より命ぜられて調えた。親王五人。左右大臣、大納言二人、中納言三人、参議宰相五人、内裏や、春宮、朱雀院の殿上人達参集しなかった者は殆どなかった。源氏の座る場所の設定は太政大臣が帝から直接命じられて調度類は事細かに制作をした。太政大臣は
今日は、大方の祝賀の会には出席しないけれども、帝直々の命令である祝賀会であるため特別に帝から勅命を受けて参列していた。源氏は太政大臣の出席に驚き、帝のお考えを有り難く感じながら席に着いた。
寝殿の、源氏の席に向き合って太政大臣の席が準備されていた。目前の太政大臣は堂々と太っているので、その風采から源氏は、いかにもこの大臣が今は国家に重要な老成した有徳者とつくづく眺めていた。太政大臣は源氏の亡き妻葵の兄であり、柏木、玉鬘、夕霧の妻雲井雁の父親である。主賓の源氏は今は准太上天皇という身分であるが、若い頃の源氏と見まごうほど若々しく見えた。唐綾で表具された屏風四帖に冷泉帝が自身で和歌を書きこみして出来上がった屏風は、唐織りの綾絹を薄紫から次第に色を濃くするだん染めの手法で染めたうえに下絵が描かれた風情など平凡な物ではなく名のある人物の作である。
風雅な春秋を墨書きの上へ彩色した絵よりもこの屏風の墨の色は輝くばかりで帝の筆墨と相俟って祝賀に見事に調和する物であった。
飾物を載せる御厨子や、それに載せて飾る絃楽器や管楽器などは、夕霧が天皇に近侍して機密の文書等を司る蔵人所より帝の仰せによって頂戴してきた物である。夕霧も大将という位につき威厳も備わって源氏四十の冷泉帝主催の祝賀会を見事に仕切っていた。内裏から祝賀の四十頭の馬が左右馬寮から左右近衛・左右兵衛・左右衛門の六衛府の役人達が、上位の者から下位の者へと順次に、庭上に馬を引き並べる間に日が暮れてしまった。
祝宴には付きものである、紫が主催した祝賀のさいと同じように万歳楽と同じ衣装で四人舞の賀皇恩を楽人がこの後参会者が得意の楽器を披露したいために簡単に早く終わらせる。器楽の名人である太政大臣が参列していることと、今回の源氏四十の賀会を帝の命令もあって催しの中心になって進めてきたこともあり、参列者はここぞとばかりに気を入れて演奏を始めた。琵琶はその道では有名な蛍兵部卿の宮で、彼はこの世でただ一人の名手と言われている。源氏は琴の琴、太政大臣は和琴を演奏する。太政大臣が、長い年月にかけての修練の賜か更に上手になったことであろうと演奏しながら源氏は太政大臣の音に耳を傾けたせいであろうか、なかなか優雅に聞こえ自分の七弦の琴もあらゆる奏法を、殆ど隠さずに演奏するので勝れた音色が響き渡った。
作品名:私の読む「源氏物語」ー48-若菜 上ー3 作家名:陽高慈雨