私の読む「源氏物語」ー46-若菜 上ー1
朱雀はこの歌を読んでその昔秋好を恋したことを思い出し少し懐古の気持ちに浸っていた。そうして、秋好は中宮にもなった幸運な人である故に幸運にあやかる品としてこの櫛は悪くはあるまいと思うのである。中宮が昔を今に伝えていると言う通りこれは名誉な櫛であるから朱雀院の返歌も昔を思う心を抑えて、
さしつぎに見るものにもが万世を
黄楊の小櫛の神さぶるまで
(秋好中宮の次に続いて、女三宮の幸運を見たいものであるなあ、千秋万歳を告げる、黄揚(つげ)の櫛がさらに古くなるまで)
と娘三宮を祝して歌を返した。
病をおして催した三宮の裳着が終わって三日目に朱雀は仏門に入るために髪を下ろした。多くの人の上に立つ位にあった人が出家をして様子ががらりと変わるのは悲しいことであるが、特に朱雀は帝の位という最高の地位を占めた人であったから周囲の人はしみじみと寂しそうで、とくに朱雀とは体の関係のある女御や更衣達は途方に暮れていた。源氏との浮気が露見して女御とか更衣という位には付けなかったがもっとも朱雀と愛し合い常に側にあった朧月夜内侍尚がひどく思い詰めているのを朱雀は見るに見かねて、
「子供を思う情愛は諦めもつき限度があるものであるが、朧月夜がこのように思いつめて悲しがる夫婦の別は限度がなく心が締め付けられる思いがするものである。三宮との別れもつらいが朧月夜との別れは体も心も裂かれる思いである」
と出家の気持ちが揺らぐのであるが、朱雀はぐっと気持ちを抑えて脇息に寄りかかり比叡山の座主ほか身を清め慎む、即ち授戒の僧阿闍梨が三人御側についていて、朱雀院に衣などを着せている間、この俗世間から離れる作法儀式が悲しくもしずしずと進行していた。今日の日の行事は悟りきった僧でさえ涙を堪えきれずにいるのであるから、まして俗人の朱雀院の女官、女御、更衣さらに下働きの者まで体を揺すって号泣する。この様子を見て朱雀は出家を決めてすぐに寺に籠もってしまえばこのような大騒ぎにならずにすんだのに、三宮のことが心配でつい躊躇したのがこのような事態を引き起こしてしまった、と周囲の人に小さく告げた。内裏はじめ多くの高官が出家見舞いに訪れたのは言うまでもないことであった。
源氏は兄の朱雀が出家後少し体調がいいというのを聞いて見舞いに出かけた。彼はなんといっても准太上天皇の位にあり下賜の封戸などは、退位の帝の上皇と対等でそのほか全てがすべて同様であるけれども出かけるときは太上天皇の行列のしきたりのように派手にはしなかった。世間の源氏に対する評判は格別に勝れているけれども彼はなるべく行動を簡素にするようにしていたので、今回も例の如く飾のない常の檳榔毛の車に乗って当然供奉すべき上達部は源氏と縁故関係の者だけを従え、普通であれば騎馬で供奉すべきものであるが車を使わせ目立たぬようにと考慮した。朱雀は源氏来訪の知らせを聞いて大変喜び彼が来るのを喜んで待ち受けていた。
朱雀は体の不調で苦しいのを押し隠して二人は対面した。病中の事でもあるから、朱雀院の休んでいる部屋に、正式な状態ではなく、簡単な源氏のための席を支度して弟を招き入れた。源氏は兄朱雀が病のために姿も気力も変わ
っているのを見てこの先どうなるのであろうと、自然に思い急に落涙を鎮めることができなかった。気を落ち着けて源氏は兄に、
「亡き父上桐壺院を見送った頃から、私はこの世が無常であると自然に思うようになりましたから、出家したいという気持ちは深く進んできたのですが、私は気が弱くてぐずぐずと考えている事ぱかりで、ここに来て兄様の出家を見ることになり私が後れをとった不甲斐なさを恥ずかしく思っています。私も出家をと決心することがたびたびありましたが、いざとなると妻子のことなど考えることが障碍となり、その他諸々のことが必ず頭の中に思い出されてくるのです」
と言いながらも朱雀を慰める言葉がないことに気がついていた。朱雀も気が弱くなっていて強いことも言い出せないで涙を流して萎れていた。それでも弱々しい声で源氏に、過ぎたことや今のことを話しながら、
「今日か明日かと死ぬ日が来るのを覚悟しながらこのように生きていますよ。こんなことでは出家の気持ちも絶えてしまうことだろうと、気持ちを改めて出家をしました。こうした決心でも残りの命は仏道修行にとうてい足らないことと思うが、山籠もりもしないでまずは仮の修行として心身を落ち着かせ念仏を唱えることにした。病のためはっきりしない私の体であるが、こうして世の中に生きていることは、ただ出家成就する気持ちに命が引きずられているからであると、自然に私には分かってくるのであるが、勤行もしないのであったよ。今までその勤行しない怠慢だけでもどうも不安に思う」
と今まで考えていたことを源氏に詳しく話をする。朱雀はその話の中で、
「女の子達を何人も置いて仏道にはいることになる。娘達が心配であるが中でも婿を決めていない三宮のことが特に気がかりで、まともに彼女の顔を見ることができない」
とはっきりとした言い方ではないのを源氏は気の毒なことと兄を見ていた。 彼の心中には三宮を嫁として預かる気持ちはなかったのであるが、それでも源氏の女好きの気持ちと親王の娘という高貴な女の姿を、さすがに見たいと思う性格であるから、朱雀のこの言葉を聞き過ごすこともできずに、
「兄上の仰言の通りなる程、普通の上達部よりも、三宮のような皇女の身分は、身内のことに関しては世の衰えた時には不安が残ります、婿となる男がないときはどうしようもない事でございますなあ。しかし今は春宮がこうして健在でありなさるから「末世である現代の大層賢明な春宮」と世間は皆そう申して頼みにしていますから、兄様が出家なされた後の三宮の面倒を見てくださいますでしょうが、それにもまして。兄様が「三宮を頼む」と申し置きされることは当然粗略に扱われるようなことはされないでしょうから将来の事は心配なさることはありませんでしょう。なる程心配するようなことではないと申しても、全てのことには限度というものがあります、春宮が帝となられて天下の政務は意のままであるとは言っても三宮のためにどれだけ心を砕いていただけるやら。
そうです、だいたい、三宮の将来のためには、何につけても本当の世話役とできるのは、やはりなんと言っても夫婦となり、三宮を心から世話をする婿殿が、三宮のためにはいずれのことに関しても安心のできる事でございますね。兄上がどうしても亡くなられた後のことを心配されるのならば、保護者となる婿殿を適当に御考えの上選定して内々で三宮のために定めておかれたはいかがですか」
作品名:私の読む「源氏物語」ー46-若菜 上ー1 作家名:陽高慈雨