私の読む「源氏物語」ー45-藤裏葉
「昔はとも角も、今は許されたのに、かく冷淡で打解けなかった貴女の様子のために、逢って却って、私は一層辛い身分であると感じました。その辛い身の程を思うと我慢できない心である上に、貴女が打解けてくれない冷淡さに、今朝は、苦しみでこの身も果てるのではないかと思うほどで、
とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ
今日あらはるる袖のしづくを
(君(雲井雁)は、咎めなさるなよ、人目につかぬように袖にたまる涙をしぼっている私の手も、しぽり疲れて弛み、かくしきれなくて今日は現れている袖の雫であるから)」
大層馴れ馴れしい様子である。内大臣はそれを呼んでにっこりと笑い、
「文字を、大層立派に書いているなあ」
と夕霧の筆を褒めるのであるが、夕霧を憎んだ昔の気持ちは無くなっていた。夕霧への返事を雲井雁は書き辛くしているので、
「文のお返しが遅れるのは見苦しいことですよ」
と言って、自分が居れば雲井雁は文を書くのが遠慮であろうと自分の部屋に帰っていった。夕霧の使いの者への駄賃である禄は、普通以上の品物を渡した。柏木はその使者を大変丁重にもてなした。これまでは夕霧からの文は隠れたものであったのであるから使いの者もこっそりと渡して帰っていたが、今日は、晴れて正式の使者として得意げに行動していた。今日の使者は源氏に使えて須磨まで行動を共にした右近衛の将監で、今は夕霧が信頼して部下にしている者である。
源氏も内大臣と夕霧とが和解したと報告を受けていた。
夕霧は雲井雁とのことが解決した嬉しさに、いつもより顔が光り輝いているようで、胸を張って源氏の許にやってきて父親と面談する。源氏はその息子の晴れ晴れしい姿をじっと見つめていて、
「今朝はどうした。雲井雁に文を送ったのか。賢い人でもひとたび女のことになると心が乱れてしまうことがあるが。雲井雁の事に関して、おまえは人聞きの悪い評判が立てられたにも関わらず、お前はあせったり、自分のことを言い訳するでもなく、落ち着いて過して来たのは、どうも、「普通の人間よりは精神的に動揺が無く勝れて抜群であったと、私は、今になって自然に考えられるのであるよ。内大臣の
御方針が、これまではあんまり窮屈であったが、今になって急に窮屈さの跡かたもなく、折れてしまいなされたのに、世間の人も、何かと、また非難を言い出す事であろうよ。
そう内大臣が、折れて仕舞われなされたとしても、夕霧は、勝ったと思い、得意になって、雲井雁以外の女に手を出すようなことをしてはならぬぞ。内大臣は『いかにも、あんなに、おっとりと大様で、寛大な』と見えるけれども、内心は、男らしくない癖があるので、付合いづらい所のがある人なのだ」
色々と夕霧にこれからの内大臣との接し方を教え込むのであった。夕霧と雲井雁は家柄もよく揃い、性格的にも似合った夫婦の間柄であると源氏は思っていた。源氏は夕霧を子供と思わず、いくらかの年長の兄程であると。源氏三十九歳、夕霧十八歳にもかかわらず、思っていたしまた他人が見てもそのように見えるのであった。源氏と夕霧と、二人が別々に居ては、同じ顔を、夕霧はそのまま写し取ったと、見えるのであるが、夕霧が源氏の前に出ると色々と違った特徴があって、どちらも立派と、見られた。源氏は薄い縹色の直衣、白い下襲の唐織物めいている物で、模様がはっきりして、つやつやと透かして織ってあるのを着用。直衣の上からも、下襲の紋は見える。源氏はもう三十九歳であるがまだこのうえなく上品であでやかで高貴で奥ゆかしくしみじみとした趣がある。夕霧はいくらか縹色の濃い直衣の下に、丁子染で。黄色に赤味のある丁子染の焦げる程まで濃く、色のしみ込んでいる下襲に白い綾織で、なつかしい感じの単衣を着ておられる姿は、殊更に新しい婿らしくて、艶麗に見られる。
釈迦如来の誕生を写した姿の誕生仏を、源氏の邸である六条院に、某寺から御連れ申し、しかも、この仏生会の御導師が、潅仏である誕生仏が安置されるよりも遅れて来たのであったから、灌仏会の四月八日の暮れてから会式が始まった。源氏の本邸である六条院に住む源氏の女達それぞれから抱えている女童を使いにして、御布施差上げる、これは内裏で行われる潅仏会と変らず、思い思いの方法でするのであった。内裏の仕方を模倣したので、宮中のと同様に大袈裟であるから夕霧や柏木その他諸家の君達なども、大勢集ってきた、しかし作法通りに行われる帝の前の灌仏会よりも、六条院の潅仏会は割合自由に式が進められるので導師の僧達はかえって、次の式次第が把握できずにいつになく緊張したのであった。
夕霧宰相は灌仏会の最中も心が落ち着かず、潅仏会が終わると直ぐに身嗜みを整えて、六条院から雲井雁方へと出かけて行った。特に、深い関係があるというわけではないが、夕霧に気のある若い女房は、雲井雁を正妻と決めた夕霧を恨めしいと思う者もあった。惟光の娘の藤典侍(内侍のすけ)なども、その一人であった。そんな女がいるのであるが、夕霧と雲井雁二人の長い年月の恋の積み重なりが、達成せられた喜ぴ、理想的な夕霧と雲井雁との夫婦仲は、二人の間に水の漏れる隙があるはずがない、夕霧を想う女房達の立ち入る隙はなかった。雲井雁の父である内大臣も夕霧近くで見るとますます性格や容姿が美しく想え、婿である夕霧を大事にもてなした。夕霧が雲井雁を想う長年の気持ちに内大臣は負けてしまった悔しさは今もまだ心の中に残っているが、そのようなものは吹き飛んでしまい、気配りのきく夕霧の性格に、今までの長い年月の間、雲井雁以外の女に移る心を持た理想通りであるから、継母の北方(内大臣の正妻)や継母の所に伺候している女房達はずに過した、夕霧の態度をこの世にも珍しく思い何のわだかまりもなくなってしまった。姉の弘徽殿の女御よりも妹の雲井雁が夕霧を夫として華やかに楽しそうに過ごして理想通りであるから、継母の北方(内大臣の正妻)や継母の所に伺候している女房達は、雲井雁を妬んで悪く言う者もあるが、雲井雁は一向に気にすることなく日を送っていた。雲井雁の実の母であり今は按察の北の方となっているが。娘が入内出来なかったのは残念だがこのように女御になるよりも花やかにめでたい婿を得たことが、本心から嬉しいと感じていると娘の雲井雁に文を送ってきたのである。
作品名:私の読む「源氏物語」ー45-藤裏葉 作家名:陽高慈雨