私の読む「源氏物語」ー42-真木柱
と、ため息混じりに玉鬘の許へと出かけていった。 たった一夜玉鬘に逢わなかっただけなのに、何となく新鮮な気がして鬚黒の男の炎がめらめらと燃えさかる、美しさが又一段と新鮮に見えて、なお一層、北方・木工君などのことは忘れてしまい、玉鬘の許に居続けてしまった。
鬚黒の北の方はせっかく修法を行ったのであるがその証がなく、物怪は彼女の体に取り付き益々威力を発揮していた。そうして北の方が鬚黒をののしると言うことを彼は玉鬘の許で聞き、
「帰邸したならぱ意外な非難も受け、恥になるような事が必ず何かある」
と、狂っている北の方が恐ろしくて彼女の側に近寄ろうとはしない。部屋に同席しても遠く離れて座り、子供達ばかり呼び寄せて話し合うのであった。一人娘の真木柱は十二、三歳になる、その下に男の子が二人いた。最近は、北方と鬚黒の間柄は しっくりいっていないので、ただ惰性で過していたけれども、北の方は本妻であり、他に女がいなかったので科のzyは本妻として威厳があったのであるが、玉鬘のことが出てきて、
「もうこれまでである、見捨てられてしまった」
と北方が、思うと、側に従う女房達も殿鬚黒のこの仕打ちを、本当に悲しい出来事である、と思うのである。北の方の父である式部卿の宮がこの事情を聞いて、
「今となっては、鬚黒がそのように、北の方をのけ者にしようとする所に、貴女がそんな状態で、我慢強く頑張っていては、人に合わせる顔がない大変不面目なことで、必ず人の物笑の種になることである。私が生きている限り殊更一途に情を無くした鬚黒に従うことはあるまい」
と連絡があり、急に北の方を父宮邸にと、迎えの車があった。
そのとき北の方はいつもの気鬱が始まり、夫婦の仲をあきれて情ないと思い、溜息をついておられる時に、父宮から御迎えが参ったと女房が取次ぎ申し上げたから、
「この屋敷に無理に留まって夫の鬚黒が私を見捨ててしまうと確信して、それから諦めて帰るようなのも、思い切って今気を強くしてここを立ち去るほうが、人から笑われることが少ないであろう」
などと考えて、里の宮邸に帰るのを決心した。
北の方の御兄の君達の中で、兵衛督は三位以上の上達部であるので、迎えは「大袈裟であるから」というので弟の中将、侍従、民部大輔達と車三台で迎えに来ていた。「どの道、当然こうなるべき事と思われる」と女房達は予想していた事であるけれども、いざその通りの場面になると、この屋敷にいるのも今日限りと、北の方に従って鬚黒邸を去る女房達はぼろぼろと涙を流してお互いに抱き合って泣くのであった。
「長い間、北方が御住み馴れなさらぬ御里の仮住いであり」
「狭いところにきまりが悪くては、どうして女房達大勢がお仕えできよう」
されば、一部の人達は、各自それぞれに、自分の里に帰り、北の方が宮邸に落ち着いてから再び参上いたしましょうと相談して、女房達各自は自分の物をそれぞれの里に送るさんだんをし、北の方の調度品は当然、取り纏めて持って行くべき相当な価値ある物は、全部、取纏めて置いたりなどする作業中にも女房達は悲しみを堪えているがそれでも涙を流して大声で泣くのが本当に縁起でもないような光景である。 そのような中で子供達が無邪気に走り回るのを母の北の方が全員を呼び寄せて、
「母は父上鬚黒大将に見放されて、こんなにつらく情ない前世の運命を、現在は諦めてしまったから、この世に生き残らなければならぬ身でもなく、どうなろうとも、運命に任せて、寄るべもなくさ迷ってしまおう。あなた達は将来があることで、しかも行方も知らなく散り散りに離れる事があるとすれば、その様子などが、私には何もかも諦めてしまったものの、さすがにあなた方にとっては悲しいことです。姫はどういう事態になろうとも私に従ってください。どちらに付くか男君達は、もし私に付いて来られても、やむを得ない事情で鬚黒邸に行って、もしも父鬚黒に逢うとしても、そのときに、玉鬘の継子となるので鬚黒がそなた達の心配をしてくれることもあるまい。そうなると姫よりも、どっちつかずの不安な状態で落着きなくこの世に過しなさるであろう。それも祖父式部卿宮がおありなさる間は、祖父の勢いで宮仕えをさせてもらえるであろうが、この天下は源氏太政大臣、内大臣の世であるから、鬚黒の父から逃げた母の子であると、源氏にも、内大臣にも、当然、知られているのであるから、出世は難しい。立身して立派な者に出世するような事は困難であるといって、私に従って山野を彷徨うのは来世まで悲しいことです」
と母は涙を流すのであるが、前に座って母の言葉を聞いている子供達はまだ幼いので言っている意味は理解できないが、べそをかいて母親と共に泣いていた。更に北の方は、
「昔の物語、即ち住吉や落窪などの継子苛めの物語を読んでみると、普通の情愛の深い親でも、その時のなりゆきで心が移り変り、それが継母ともなれば、継子には辛く当たるものである。世の常の親以上に、父子と父性愛などすっかり無く子達の事をすっかり忘れている気持では、子達の力になる点があっても、頼りになるようなことはあるまい」
と言って、子達の乳母達を前に呼び寄せ、先の言葉は子達に言い聞かせ、次の言葉は乳母達に語り告げた。これが北の方と乳母達との,別離の言葉であった。日も暮れてきて雪が降りそうな空模様である。心細く感じる夕方であった。
「雲行きが怪しいです、空模様が変わらないうちに出発いたしましょう」
と迎えに来た兄たちが妹の北の方を涙を押し拭いながら催促する。姫の真木柱は鬚黒がとても可愛がっていたので姫は、父上と御逢い出来ない生活はとても出来ないと、父鬚黒を慕っているのである。只今出て行くと,父に申さずに行ってしまったならば、一生涯私は父鬚黒と会えないような気がする、と思うので、彼女は泣き伏して、母の里へはとても行けない、と思うのである。それを見て北の方は
「貴女が、このように私の里に行きたくないという気持ちが私にも大変悲しいのです」
と姫に同情して語りかける、真木柱姫は、
「今にも父上がお帰りなさる」
と父鬚黒の帰りを待とうとするが、こんなに暮れてしまって鬚黒が玉鬘の許から帰ってくるはずがない。眞木柱は父を待つ間よりかかっていた東表の柱が、自分が父鬚黒邸を去った後は、他人の物になってしまうと考えると感慨無量なので、彼女は紫の黄ばんだ檜皮色の紙の重ねたものにほんの僅かに書いて柱の割れ目に笄の先でその紙を押し込んだ。眞木柱は、
今はとて宿かれぬとも馴れ来つる
真木の柱はわれを忘るな
(今となってはこれまでと、住み馴れたこの宿(鬚黒邸)を離れてしまっても、今まで馴れ親しんできた真木の柱は、私を忘れてくれるな)
と、やっと書き記すと眞木柱は泣き崩れてしまった。母の北の方は、
「さあ出発しましょう、何の心残りがあるでしょうか」
と言って、
馴れきとは思ひ出づとも何により
立ちとまるべき真木の柱ぞ
(かつて馴れ親しんだどいう私たちのことを、将来、柱が思い出すとしても、私達は、どんな理由で柱を見限ったのか、柱はともかくとして、この宿の主人が心変りしてしまっているからここを立ち去ったのである)
作品名:私の読む「源氏物語」ー42-真木柱 作家名:陽高慈雨