私の読む「源氏物語」ー42-真木柱
と思うのであるが、鬚黒は、このようなとき申し訳ないとは思いながらもやっぱり、玉鬘に逢いたい恋心が勝るので、この雪に気は進まないが、玉鬘を訪ねようと思うなど本心でないように聞こえる偽りの溜息をつきながらも着替えをして袖香炉で小さい火取を取り寄せて袖の中に入れて袖に香をしみこませていた。鬚黒は見よい程度に糊気の落ちた軟かい衣装を着込んで、顔も、当代一番人気のある源氏には劣るが、それでも立派に男らしく普通のあり触れた男とは見られなくて風采は立派に見えた。供の者のいる詰め所に鬚黒の周りの男達が、
「雪が少し落ち着きました」
「夜が少し更けましたようで」
話す言葉も北方に相当気兼ねして、鬚黒に言うのではなく、供人同士の話のように、それとなく鬚黒の出発を催促して、互に咳払いしあっていた。鬚黒の夜伽の女である中将・木工の女房などは北の方に味方をして二人して、
「惰なくつらい男女の仲であるよ」
と鬚黒が北の方を見限って出て行くのを見送ってそれぞれ床に横になろうと北の方を見て、「北の方は懸命に胸の苦悩を鎮めておられるよう、物に寄りかかって横になっておられる姿がいじらしい」と女房達が北の方を見ていると、突然気鬱おこり荒々しい発作で北の方は起きあがり、火取の籠を取り払うと火が入ったままの火取を持ち鬚黒の後ろに近寄り、さっと、火取の中身の灰をを赤く火のついた炭火ごとあぴせかけた。それは女房達が止める暇もないほどの咄嗟の出来事であった。鬚黒は驚いて振り返る。火取の細かい灰が目や鼻に入り灰だらけの体になってどうしょうもない。灰を払いのけようとするので灰神楽が部屋中にたち、先ず着ているものを脱ぎ捨てた。
「急に発作が出た北の方は、このようなことを」
と思うと二度と北の方を見ようともしないで、鬚黒は困った事と呆れているけれども、近くにいた女房達は、
「いつもの物の怪が殿に北の方を遠ざけるようにし向けているのだ」
と、狂った北の方を、見ていられないほどかわいそうであると見つめていた。女房達は急いで鬚黒の衣装を新しく揃えて持ってきて着替えをするのであるが、沢山の灰が頭や体中にとりついた気持ちがするので、華美をつくした玉鬘の所に、灰をかぶった
その儘の姿では、玉鬘の前に参上することができるものでもない。鬚黒は、
「物怪で、気が狂っているとはいうものの、やっぱり不思議な妻の行動である」
と思い、自然に腹が立ち、愛想も尽きたので、今までは彼女は物怪のため不可解な行動をする気の毒な女であると、これまで彼女を哀れんで考えていた気持も、今はすっかり無いけれども、
「この場合、事を荒立て離縁などしては、大変な面倒なことがきっと起るであろう」
と、鬚黒は愛想のつきた心を落着けて、まよなかになったが、祈祷師の僧侶を呼び寄せて、調伏の祈幡などをして屋敷中大騒ぎをする。北方が物怪に取り付かれて、大声で叫びわめき騒ぎする声などを聞けば、鬚黒が、妻に愛想を尽かし嫌に思うようになったとしても当然のことである。祈祷僧に一晩中、数珠に打たれ、手で引きずられ、叫び泣き狂ってやっと北の方が落ち着い玉鬘のを見て鬚黒は、玉鬘に文を書く、
「昨夜、急に正気を失って気絶し死にそうになった者がありましたので、そのうえ雪の降る様子までもひどいようで、とても出かけることが出来ませんで、ぐずぐずしておりました。雪の寒さの上に、一人寝であったから体までも冷えてしまい辛う御座いました。それはさて置き、私の訪れないのを、御側の女房は、早くも鬚黒は夜がれをすると、思っているようでありますか」
と生真面目に書いてあった。そして、
心さへ空に乱れし雪もよに
ひとり冴えつる片敷の袖
(昨夜は、雪だけでなく、私の心まで、どぅしてよいやら、うわの空で少しも落着かずに乱れ、雪も降り乱れた中に、只一人、冷えきった私の衣だけを敷いて佗ぴ明かした)
独り寝は堪へがたくこそ」
と白い薄紙に墨色もつやっやと書いてあるけれども、書風はそれほど立派であるとは特色はない。ただし箪蹟は大層立派である。鬚黒漢学の才が、元々優秀であった。玉鬘は鬚黒が自分の独り寝を心配してくれているにもたいした考えはなくむしろ一人で寝られたことを喜んでいた、しかし、このように鬚黒の来訪せぬのを玉鬘が何と思っているであろうかと鬚黒が、胸をわくわくさせて返事を期待して文をよこしたのに、玉鬘はなんの気もなく返事も書かない。鬚黒は、返事がないのにがっかりして、一日中玉鬘のことが頭から離れなかった。
鬚黒の本妻北の方の狂乱は治まったのであるが、翌朝になっても体の苦しさはとれず、鬚黒はある仏を本尊として祭り祈祷をする「御修法」を始めた。「せめて-当分の間だけでも正常でいてくれ」
と内に思い、鬚黒は仏に祈るのであった。北の方の気立が、正気の時はしみじみと可憐でいじらしくあるのを知っていなければ、とても我慢する事ができそぅもない、あの狂気の気味悪さである、とつくづく鬚黒は思うのであった。
日が暮れると鬚黒は本妻を放って置いてさっそうと玉鬘の許へ出かけた。装束やその他の点も今は北方が物怪に患っているので、あまり体裁良く立派にはすることもなくて、しっくりとしないので、鬚黒は、周りの者にぶつぶつ小言を言うが、美しい直衣など間に合わせる事ができないので仕方がない。北の方から火取を投げられ焼けて穴があいて見苦しい昨夜の直衣は、気味悪い焦げた匂などもしていた。更に当時着ていた下襲にも焦げた匂いが移っていた。焼けこげの匂いは北方に嫉妬せられた工合が露骨に知られるので、玉鬘が鬚黒に、きっと失望し嫌気がさすに相違ないから、着換えて入浴して、大層おめかしをする。
女房木工の君は鬚黒の衣の香をたき籠めながら、
ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに
思ひあまれる炎とぞ見じ
(昨夜、鬚黒の直衣を焼いたのは、北方が一人取残されていて、鬚黒にこがれる胸が苦しいせいで、胸に包みかねて「思ひ」の火のあまった火焔と、どうも見ました)
愛情が玉鬘に移ってしまって跡かたもない、北方に対する御扱いは、平気でだまって見ていられましょうか、いられません」
と言って恥ずかしそうに口を袖でおおいかくしていた木工君の目許は、大層美しい。北方の事を言いながらも、木工君は体を許しあう鬚黒に自分の嫉妬の心を込めていた。玉鬘に夢中の鬚黒は、
「どうしてこんな木工君のような者と添い寝をして、甘い言葉を掛けて結びあったのであろうか」
と鬚黒は自然に思い後悔していたが、それは木工君に取っては全く薄情な話であることよ。鬚黒は、
憂きことを思ひ騒げばさまざまに
くゆる煙ぞいとど立ちそふ
(昨夜物怪で、北方の情なくつらい目に逢った事を考えて、落着かないでいると、北方にも木工君にも、あれやこれや、こんな女と関係を持った事に、後悔の念が、心の中に多く浮かぶ)
あってはならない北の方の物狂いの件が、万が一、玉鬘に聞かれる事があるならば、私は玉鬘に嫌われて、この恋も失われ、どちらからも嫌われてしまい身の置き所がなくなってしまってどっちつかずの中途半ぱな身になってしまう」
作品名:私の読む「源氏物語」ー42-真木柱 作家名:陽高慈雨