私の読む「源氏物語」ー42-真木柱
などと、こまごまとやさしく玉鬘に語る。しみじみと有難くも、気恥ずかしくも、玉鬘は御聞きなさる事が沢山あるけれども、そのどちらを聞いても涙にくれてしまうのである。玉鬘の姿を源氏はじっと聞きながら想像してすまない気持ちになるのであるが、今日はいつものように玉鬘に彼女が嫌がるような行為をすることなく源氏は、宮中での勤めのあり方、気配りなどを彼女に教えるのであった。しかしかねてより鬚黒が希望している、彼の屋敷に移ることは許さないようであった。
鬚黒大将は妻とした玉鬘が内裏に出仕することを快くは思っていなかったけれども、又一方では、玉鬘が出仕した折りに、内裏からそのまま真っ直ぐ我が家に連れ込むことが出来ると考えつき、しばらくの出仕を玉鬘に許すことにした。このような人に隠れた秘密の行動もあまり慣れていない鬚黒にとって苦痛であるので、自分の屋敷に連れ帰ろうと玉鬘を住まわす館を修理して整えて、それまでは、鬚黒の北方が気鬱の病を患っているので繕いもせず、荒れるに任せ塵や埃に埋れ、そのまま打捨てていた設備や、玉鬘を迎える飾り付けなどを、急いで新しく改めた。そんななか正妻の北の方が玉鬘のことを思い捨てられる我が身を嘆くのを鬚黒は知るよしもなく、父と母の気まずい争いを悲しむ子供達のことをも目に入らなかった。一般に柔和で思いやりのある心がともある人は、如何なる事をなそうとしても、他人から恥ずかしく見えはしないかと、考えて行動するものであるが、この鬚黒は考えることの視野が狭く一途に考えずに進む気性、向う見ずの一徹者、であったので、北方が立腹した事も多いのであった。北方は式部卿宮の姫君、左兵衛督の妹で紫の上の腹違いの姉である。玉鬘に劣るような身分ではないのである。式部卿の宮やその北の方即ち母君からも大変寵愛されて育てられ、そんなに軽い身分ではなく容姿も玉鬘に劣らないほど端麗であるが、今はしつこい気鬱の病にとりつかれ人からは物怪にとりつかれたと言われてこの年頃常人とは思われない本心を失う時が度重なりあるので、鬚黒との間も疎々しくしっくりしなくて、月日がたってしまったのであったけれども、本妻であるから、家中では最高位として他に並ぶ者がないと北の方は思いこんでいたのであるが、珍しくも堅物の鬚黒が女に気が移り、その女が並一通りというだけの者ではなく、他の女に勝れた器量である事、それよりも更にあの源氏との仲が一通りの物ではないと疑問にしている者が多いということさえも、鬚黒が、玉鬘は純潔で過した事などを、近頃立派な女である、と玉鬘を益々思いこんでしまうのも彼の境遇からは一つの道理であると見ていい。
北の方のことを父親の式部卿の宮が聞いて、
「現在は、そのように花やかな玉鬘を自邸に引取って、普通は他所に置いておく愛人を自分の家に引き取り世間に見っともないようにして、本妻が、もしもそのまま夫鬚黒に添うているとすれば、それは大変恥ずかしいことである、自分が、この世に生存している間は恥さらし者である。鬚黒が反対しても私は自分の思いで実行する」
と、
「此方の東の対を取りかたづけて改修して、姫(鬚黒の北方)を引取ることにしよう」
と北の方に語るのであるが、北の方は、
「親としてのご心配は尤もなことでありますが人妻として、今は見捨てられてしまう身で、生家に帰って父君にお会いするのは面目ないことです」
と心は乱れるのであるが、意識が薄れて床についてしまった。彼女は生来の気質は大層物静かで、気立てはよく、大様でおっとりとした女であるが、時々起こる気鬱の発作で人に嫌がられる行動をするのであった。
そんな狂気の状態で、北方の居間などが物怪と言われる気鬱のため、片付けることもなく、又自分自身は、化粧をすることもなく、身嗜みもせずに、衣装姿も見すぼらしく粗末にして、大層引っこみ勝ちに振舞っていたので、鬚黒は六条院の玉鬘の玉を磨いたように立派で花やかな住いを見た目ではとても比較にならないと、子供もあるので変えるというものでないから、内心にはこの北方を「大層可哀そうである」と思っていた。
鬚黒は、
「昨日今日結びあった夫婦でまだ縁も浅い身分の高い人達でも、不満があってもそれを押し隠して我慢をして最後まで添い遂げるものである。私は貴女が病身で苦しんでいたのを側で見ていて貴女に言いたことがあっても今までぐっと我慢してきましたが、今は言わしてもらうよ、貴女とは長年連れ添ってきた仲ではないのか、物怪がとりつきこの世のものとは思えない姿になったが、それでも最後まで看病をしてあげようと、覚悟してました。ですから私はすべてを犠牲にして過ごしてきた、ところが、私が我慢して、最後まで貴女の面倒を見られまいと思って里に帰ってしまおうという考えで、私を嫌われるのですなあ。幼い子供もあるのだからいずれにしても貴女を疎略に扱うようなことはしませんよ。このことは常々貴女に言っていることで、貴女は女で、思慮も深くなく、その上気鬱の病で心が乱れている状態のままに、この私と別れて里に帰るというように私を恨む。しかし私の本心を最後まで見届けないうちに、貴女の心に私への恨みがあるでしょうが、わたしがするようにまかせて今暫く私のことを見届けて欲しいと思う。父上の式部卿の宮が私たちの噂を聞かれて私を遠ざけようとなさり、
「何のこだわりもなく、綺麗さっぱりと、そっと貴女を宮邸に引取り申そう、と思われていらっしゃるようであるが、それはかえってたいそう軽率なお考えである。ほんとうに父上の式部卿宮が御考えなさったことであろうか。或は暫く、私を懲らしめなさることであろうか」
式部の宮を嘲るように鬚黒は笑い妻の北の方に言うのである、聞いていて憎らしげで、北方は心中穏かでない。
北の方の女房であり鬚黒の夜の添い寝の女で鬚黒とは体で慣れ親しんできた木工の君や中将のおもとという人達でも、鬚黒が北の方に語る言葉を聞いてそれぞれ、玉鬘にのぼせて夢中な髪黒の心を、「情ないこと」と思っているのであるから、本妻である北の方はそのとき正気であったので、鬚黒の話すことが夜伽女の女房以上に衝撃的で心が穏やかでなくつらく恨めしく悲しい、それでも長年連れ添い子供も成した仲であるのが懐かしく泣き伏していた。
北の方は、
「ぼけた。ひがんでいる、と言いなされ、貴方が私を恥ずかしめなさる事は、私の体がこのように病がちであるから、仕方がないことであります。しかし私だけなら好いのですが、父宮のことまで私への雑言に混ぜておっしゃるのは、このことが父上に漏れて聞こえたならば気の毒であり、このように気鬱の病で不運な私の縁者の故に、ぼけている、ひがんでいると非難して仰せられる事がいかにも父宮のためには、父宮の威信や名誉を落すようであります。私への非難は以前から聞き馴れておりますので、今更のどのようにおっしゃられても新たに、つらいと気には掛げませぬ」
と言って鬚黒に横を向いてしまった姿は又それなりに気品があった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー42-真木柱 作家名:陽高慈雨