私の読む「源氏物語」ー30-乙 女
と源氏を恨むのであるが、夕霧は根が真面目で浮ついたところがなく、我慢強い性格であるので、
「何とかして必要な漢籍類を早く読み終えて、官途にもついて、出世しよう」
と思って、わずか四、五か月のうちに、百三十巻の『史記』を読み了えてしまった。
源氏は夕霧の勉学も相当進んだことでもあろうと。大学寮の寮試を受けさせようと思ってどのぐらいの学力が備わったのか試してみようと、まず自分の前で試験をすることにした。寮試の模擬試験である。この試験は大学頭の監督のもと、「史記」「漢書」から5問が出題され、3問以上に通じていれば及第、『擬文章生』(略して『擬生』)に補され宮仕えの第一歩を踏み出すことが出来るのである。
いつも夕霧のことについて来てもらっては相談する、夕霧の伯父頭中将の右大将、左大弁、式部大輔、字式の時に各自の作詞を朗詠した左中弁などを立会人として招いて、能文・能筆である夕霧の師である大内記を呼んで、『史記』の難しい巻々を指定して、寮試を受ける時に、博士が問いかけるようなところどころを想定して取り出して、それぞれを夕霧に読ませると、詰まることなくすらすらとすべての出題を読み解いてしまった。不可解のところを爪を押しつけて印を付けることもなく、参会者があきれてしまうほどよくできるので、
「お生まれが違っていらっしゃるのだ」
と、皆が皆、涙を流して感心する。伯父の右大将は、甥の夕霧のすばらしさに誰にもまして、
「亡くなったあの子の祖父の太政大臣が生きていらっしゃったら」
と、口に出し、涙を流す。源氏も息子のできばえに我慢が出来ずに感激する、
「私は今まで親が子を褒めるのを愚かな親だと思っていましたが、さて今我が子が子が大きくなってこのように成長して、一方で、親の私がとてもついて行けなくなることは、まだ私は老いぼけるような年齢ではありませんが、世の中とはこうしたものなのだなあとつくづく感じています」
などと言って、涙を拭いているのを夕霧の師である大内記は間近に見て、大変嬉しく面目をほどこしたと思った。
源氏がこの大内記に杯を与えると、彼は喜びのあまり酔いが早く回ったのか酔っぱらっている顔はとても痩せ細っていると源氏には見えた。源氏はこの男は大変な変わり者で、学識豊かな割には高い地位に登用されず、顧みられなくて貧乏でいたのであったが、源氏はかねてからこの男の学識に感じ入るところがあって、今回夕霧の師にと招聘したのであった。
彼大内記は身に余るほどのご愛顧を源氏から頂戴して、夕霧を教えたおかげで、急に人生が開けたような思いがしていた。
彼の将来は今にまして、並ぶ者もない声望を得ることであろう。
夕霧が大学寮の寮試験を受ける日に、二条にある大学寮の門前に、殿上人の車が数知れないくらい集まっていた。夕霧の試験場に入る姿を見ない人はいなかったのではないだろうか、これだけ世間の注目を浴びた夕霧はの様子は、なるほど、これだけの注目を浴びるほど上品でかわいらしい感じの少年であった。
試験場にはいつものように生徒達の末席に座った。自分の家よりも位の低い者たちの末に座るのをつらいと夕霧が思うのは当たり前のことである。
試験場でも座る姿勢が悪い、筆の持ち方が違う、読む声が小さいと勉学の時と同じようにここでも大声で叱る者がいて、気が散るのであるが、夕霧はその声に気後れすることなく最後まで出題を読破した。
今は大学に入寮することが盛んな時代なので、家柄の上中下を問わず、我も我もと、この道を志望し集まって勉学に熱中するので、ますます、世の中に、学識があり有能な人材が多くなったのであった。そのような中で夕霧は擬文章生などとかいう試験をはじめとして、文章得業生、とすらすらと合格しひたすら学問に心を入れて先生も夕霧も、いっそう励無のであった。。
源氏も、漢詩の会を頻繁に催し、博士、文人たちに自分の作品を発表する機会を与えたので学のある者たちは満足していた。
すべてどのようなことにつけても、それぞれの道に努める人の才能が発揮される時代なのだった。
冷泉帝は十四歳になった、そろそろ、正式な后を決める歳である、女御としてすでに帝と歳を同じの頭中将の娘弘徽殿女御、と源氏との関わりがあった六条御息所の娘で前の伊勢斎宮、梅壺の女御が添い寝として仕えていたが、源氏は、
「斎宮の女御、梅壺女御こそ、帝の母上藤壺入道の宮が、亡くなられるときにこの私を自分の変わりに帝の後見として世話役をするようにとおっしゃっていましたから」
と、源氏大臣も亡き藤壺の遺言を表に出して梅壺女御が后になることを主張する。しかし六条御息所は亡き桐壺院の弟でかって東宮であった夫人であり、桐壺帝の中宮であった藤壺も、桐壺の前の帝の子供であるという関係から皇族出身の后が二代続くのはどうかと、世間の人は賛成しない。そうして
「弘徽殿の女御が、まず誰より先に冷泉帝の許に入内したのだから、彼女が先ず后になるのが当然のこと」
などと、源氏の言い分を可とする者、弘徽殿女御を可とする者と、こちら側あちら側につく人々はそれぞれ自己の思いを主張すると共に気をもんでいた。
そこにまた兵部卿宮、今は式部卿になって、帝の信任厚い方になり、その姫も、かねての望みがかなって遅れて入内していた。源氏の夫人となっている紫の上と姉妹である。彼女もまた藤壺の姪に当たるので梅壺女御同様に、皇族の出である女御として伺候しているので、
「同じ皇族出身なら、帝の母方からお迎えすれば、亡き母后の代わりとして帝を大事になさることだろうからもっともふさわしい」
と理由をつけて、三人の方がそれぞれ競争したのであるが、今は勢いのある源氏が強くやはり源氏が押す梅壷女御が正式な后と決定した。年が遙かに違う年上で、伊勢斎宮となられて東に下ったりといろいろとあったのであるが運の強い方だと、世間の人は驚くのであった。
源氏は、太政大臣に昇進して、頭中将の右大将は、内大臣になった。源氏は政治一切を内大臣に譲り自分は政治のことに口を挟まないようにした。かっての頭中将の内大臣は、性格は真面目で威儀も正しく、気遣いもしっかりした人物であった。勉学もしっかりとした学者でもあり、まえに、多人数が集まって詩を作る時、各人が韻字本を無心に開いて、そこに出た韻字をその人の作るべき詩の韻とする韻塞ぎという遊びに源氏に負けたことがあったが、行政事務の手腕はなかなか立派であった。
彼の周りにはいく人も妻妾がありそれぞれに子たちが十余人、いずれも大きく成長して、次から次と立派になり、そこらの高貴な家と負けず劣らず栄えている一族である。女の子は、弘徽殿の女御ともう一人あった。桐壺の妹三宮を母親として、高貴な血筋では源氏に劣らないのである。
弘徽殿の女御の妹に当たる娘の母親は内大臣と別れて按察大納言の北の方となって、現在の夫との間に子どもの数が多くなり、内大臣は自分の娘を
「子だくさんの所に娘を預けておくわけには参らぬ、まして継父の許に置くのは困る」
作品名:私の読む「源氏物語」ー30-乙 女 作家名:陽高慈雨