私の読む「源氏物語」ー30-乙 女
高位の家に生まれ満足した位を苦労もしなくて頂戴しこの世の盛りを謳歌していると、学問と言うことはとんと忘れてしまい、遠くのことになってしまいます。遊興に走り思うままの官位を得てしまうと、彼の官位にへつらって内心は馬鹿にしながらもお追従笑いをつくりながら後をついて来る、一見立派に見えるのだが時が過ぎて、帝が代わり政治を仕切る大臣達も入れ替わると、頼みとする人が消え去って運勢が覆り学問、技芸がないため追従でしたがってきた者達はもう見向きしようともしないという哀れな存在になります。
なんといっても、しっかりと学問を身につけてこそ、宮中にお勤めしたときに、実情に応じた政治的判断や行政能力が政治家として認められるというものでしょう。当分の間は未熟者で心配をかけると思いますが、将来世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、誰に頼らずとも安心できようと思っております。ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように夕霧を育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまい」
などと、夕霧の祖母の大宮に、自分の育て方を話すと大宮も了解して、ほっと吐息をつき、
「なるほど、貴方がそこまでお考えになるのは当然のことです。頭中将なども、貴方の処置があまりに例に外れたことだと、不審がっておりましたようですが、夕霧も、大将や、左衛門督の子ども達が、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ元服して位が上がり、一人前になったのに、自分だけが六位の浅葱を着ていることをとてもつらいと思っているのが、気の毒なのでございます」
と源氏に愚痴ると、ちょっと笑って、
「元服して一人前になって不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことで。あの年頃ではね」
と言って、源氏は夕霧をとてもかわいいと思っていた。
「しっかりと学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
と大宮に申し上げになる。
唐国の人は氏名の他に字という普段呼び合う名前を使う。氏名を呼ぶことは失礼に当たるとして帝か親、目上の人以外は人を呼ぶのには使わない。その習慣を習って大学寮も新しい入寮生に字をつける儀式があった。夕霧にも当然唐国の風習にならって大学に入寮する際に、大学の博士から名前を戴く儀式、字授与式が二条院の東の東院で実施することになった。この字がこれから夕霧に対しての呼び名となって同僚達から呼ばれるのである。
太政大臣として天下に君臨する源氏の息子の夕霧が、字を戴く式が東院であることを知って、珍しい儀式を見ようと大勢の殿上人が源氏の屋敷に参集してきた。普段このような高官達と面識がない大学寮の文章博士、列席している儒学に優れた学者は、きらびやかな装束をまとった高官達を前にして、気後れしてしまっていた。源氏はそのような博士達に、「遠慮なくいつもの通り厳格に式典を実施してください」
と告げたので、博士達は無理に気を強く持ち、知り合いから借りてきた身に合わない装束を着て、恥もせずに学者らしい威厳をつけて、緊張した声で咳をしたりして所定の座に並んで座った。その姿がこの場の雰囲気に合わないので、若い者達は笑いをこらえるのに必死であった。
源氏は会場の空気に物怖じしない年嵩の者を選んで接待役とした。かっての頭中将の右大将をはじめとして民部卿達がいつもの宮中での宴と違っているのを察して無理に気を静めて杯を取る、それを見ていた博士は、
「なんということ、ご接待の方々が多すぎます。私たちのことをあなた方はお知りにならない、何という見識のないこと」
と言うと聞いていた人たちがその様子がおかしくてまた大笑いをする、儒学者の一人が、
「やかましい、お静かに。不謹慎なお騒ぎならば退席なさい」
と威嚇する姿がまたおかしい。
初めての方は珍しい行事になるほどと感心しているが、大学寮出身の殿上人達はなれたことで、笑ってみていたが、それぞれが源氏の夕霧に対する教育の仕方に感心していた。
少しでも私語をすると博士の叱責が飛んでくる、博士が思うままに来賓者達に物言うのが、日が暮れるに従って灯がともされるとそのその光に写されてますます滑稽に見えてくるのであった。まるで猿楽を舞うているようなと参集者はこそこそ囁く、会は異様な様子になった。源氏はそれを見て、
「これは大変なことになった、自分のようにだらしない者はきっと叱られることよ」
と側の者に言って御簾の中に入りその中から一座の様子を見ていた。
座る場所がないと言って列席していた大学寮の学生達が帰ろうとするのを、源氏は釣殿に席を設けさして飲み物や食べ物を運ばせて記念の品を差し上げていた。
式が終わり座を立って帰ろうとする博士や儒者の方々、また列席した博学の殿上人達を呼び止めて源氏は、皆に詩文を作るように言う。
博士たちは、八句で四つの韻脚がある律詩、 普通の人は、大臣をはじめとして四句から成り、起・承・転・結の構成をとる絶句を作詞した。おもしろく目立つ題の文字を選んで、文章博士が源氏に差し上げた。夏なので夜が短い、夜が明けるまで作詞の会は続いた。列席していた大学寮の出身である左中弁が、読み上げる役を勤めた。この男は容貌も優れ、声の調子も堂々として読み上げたので各自の作品が厳な感じがしたのであった。この左中弁は宮中で信望が格別高い学者であった。
夕霧の作品も参会者みんなに披露された。源氏とういう高貴な家柄に生まれて、この世の栄華をひたすら楽しんでもよい身の上でありながら、:「晋書ー車胤伝」 晋の車胤は、貧しいために灯火用の油が買えないで、蛍を集めてその光で書を読み、また、孫康は雪の明りで書を読んだ。という唐国の故事にあるように夕霧は、窓の螢を友とし、枝の雪に親しみ学問に励んでいる、参集した人それぞれ思いつく限りの故事をたとえに引いて、「唐土にも持って行って伝えたいほどの名詩である」と、褒めたたえるのであった。
源氏大臣の作品は言うまでもない。親らしい情愛のこもった素晴らしい作品であった。涙を流して朗誦しもてはやしたが、作品は漢詩であり女としては習うこともなかったので口にするのは生意気だと言われそうなので、書き止めなかった。
字を頂戴した夕霧は引き続いて、入学式ということになり、言辞はそのまま、この東院の中に夕霧の勉強部屋設けて、優秀な先生に預けて、学問に励むようにした。
母親の葵の母である大宮のところにも、めったに訪問しない。源氏はもし大宮の屋敷で夕霧が勉強をするようになれば、祖母の大宮が夕霧を昼夜かわいがり、いつまでも子供のように扱うことになるであろうと思い、それでは勉強も満足に出来ないと考えて、静かな場所の東院に勉強部屋を作り夕霧が簡単に外に出ないようにしたのであった。
それでも源氏は夕霧に、
「一月に三日ぐらい大宮にお会いなさい」
と、許可を与えた。
夕霧はじっと勉強部屋にこもったまま、気持ちが晴れない、父親の仕打ちを、
「父上はひどい方だ。こんなに勉強に苦しまなくても、高い地位に上り、世間に重んじられる人もいるではないか」
作品名:私の読む「源氏物語」ー30-乙 女 作家名:陽高慈雨