私の読む「源氏物語」ー29-薄雲
私がこれから申すことは、このさき帝の御代からさらに先々までも弥栄えます御代に影響がある大事なことで、もしこのことが漏れましたならば亡き桐壺院、お母上の后の宮様、ただいまこの国の政治を取り仕切っておられる源氏君すべての方に為にならぬこととして世間でとり沙汰されるやもしれません。このことは私のようなおいた僧侶にはなんの苦にもならないのですが、私に仏のお告げがあり帝にここで申し上げることにいたしました。
帝がまだ母の后のお胎におられる頃、亡くなられた母上は何か思い詰めていらっしゃたことがあって、ご祈祷を願われることがありました。その子細は私にははっきりとはいたしませんでした。源氏の大臣がかって須磨に流浪なされたときに、亡き后の宮はさらに深く心配なされて、重ねて大臣のご無事を祈念したご祈祷を申し受けました。そのことを源氏の君も聞かれましたのかご自身もさらに尊い祈りを捧げるようにお命じになりました。そしてその祈祷は帝がお位につかれるまで続けられました。その祈祷の内容については」
と長い前置きの後で僧都は冷泉帝の出生の秘密である、藤壺と源氏の密事を詳しく帝に話したのであった。身じろぎもせずに僧都の述べる自分の出生の秘密を聞いた冷泉帝は、僧都の話が終わるや体に戦慄が走り、恐ろしさと、悲しさとが入り交じって名状しがたい混乱に陥った。帝はあらぬ方を見据えたまま言葉も発しない、僧都はそれを見て、自分の言上したことで帝は不快に思われたのであろう、大変なことを申し上げたと、席を立ち帝の前から下がろうとした。帝はあわてて退席する僧都を止めて、
「大変言いにくいことを申してくれて、このことを知らずに過ごしたならば来世まで罪を背負っていくことになったであろう。今まで私に隠しておられたのは、私を信用なさらなかったからであるのか。このことをほかに漏れ知っている者はいるのか。」
と尋ねる。
「いいえ、私と王命婦のほかには誰もおりませぬ。そうでありますので私には恐ろしいことでございました。このことを隠していたため世の中が乱れること多く、天災もかずかずありました。帝がまだお若く世の中のことをまだおわかりでないお歳の頃はお知りにならなくてもよかったのですが、もうお歳も十分におなりになった今では、ことの道理がおわかりになるのは当たり前のことで、そこで天が罰を下されることになったのです。すべてのことは親より受け継ぐものでございます。何もお知りにならないままでは、恐ろしいことでも現れはしないかと、勇気を出してお伝えした次第であります。」
と涙ながらに語る僧都の言葉をじっと聞き入っていた帝、その夜は白々と明け、僧都は静かに帝の前から下がった。
冷泉帝は思いもよらぬ自分の出生の秘密を聞かされて、あれやこれやと頭の中を想念が駆け回ってまとまりがつかない。
「父君と思うていた桐壺院にもすまないことである。源氏大臣もただの臣下として仕えられることも、申し訳なく」
いろいろと考えることが多く、昼頃まで表に出てこないので「これは大事」と知らせを受けた源氏が急いで参上するその姿を見た帝は、昨夜の僧都の言葉を思い出してとても我慢ができすに思わず涙を流してしまった。それを見て源氏は、
「おそらくまた母宮のことを思い出されているのであろう」
と想像していた。
冷泉帝が出生の秘密を知って心が乱れてどうしようもないその日に、亡き桐壷院の弟宮で桃園式部卿宮、朝顔斎院の父宮が亡くなったという知らせがあった。帝の心はますます乱れを増した。そのようなことで源氏は自分の屋敷に戻ることが出来ないまま宮中に勤めていた。帝の前に伺候して帝と静かに話をしていると不意に帝が、
「世も末に近づいたのであろうか、このごろ何となく心細い気持ちがしてならない。世間の者たちも同じように感じているのではないだろうか。亡き母宮が心配されると思って言い出せなかったのであるが、私はこのまま帝の位に座っていていいものであろうか。世の中のことを考え私はこの座を去って静かに暮らしたいと思う」
と源氏に話しかけた。
「それはとんでもない間違ったお考えです。世間が不安であることは必ずしも政治のあり方が間違っていることが原因とは申せません。世の中が静かに治まっていた御代でも、悪事はあるものです。立派な帝が治められた世でもよからぬことを考えた者がいたと、かの唐国にもありました。もちろん我が国にも過去にございました。歳をめした者が亡くなるのは世の道理のことで、そのことを心にかけて心配するのはおやめください」
などといろいろとお諫めになるが、この上の言葉は省くことにする。
普段着ている喪服よりさらに黒色の服装で源氏の前に座る帝は少しやつれて源氏とそっくりの要望である。帝は鏡を見るたびに源氏に似た自分を感じていたのであるが、僧都から自分は源氏の子供であることを聞かされて、鏡をさらに注視してみながら、心中穏やかではない、「どのようにして父である源氏に自分が出生の秘密を知ってしまったことを告げようか」といろいろと考えるのであるが、源氏の隠された秘部を暴くことになり源氏がいやな気持ちになると思って、若い帝は遠慮していつもよりはしんみりと世の中の出来事をあれこれと親密に話しかけるのであった。 源氏はいつもとは違う冷泉帝の自分に対する態度を、変だなとは感じるのであったが、まさか帝が自分の出生のことを僧都から聞いていたとは、頭の鋭い源氏も想像することも出来なかった。
冷泉帝はかって亡き母藤壺の側近くに仕え、今はまた自分の側に侍る王命婦に、僧都から聞いた自分の出生の秘密を問いただしてみたかったのであるが、
「今になって母上や王命婦が隠されていたことを知ってしまったと、王命婦に知られたくはない。ただ源氏大臣にはそれとなく問いただしてみて、我が御代の歴史上に先例があることかどうかをはっきりしたい」
と思うのであるが話を切り出す機会がなく、学問に打ち込み何かの例があるものかといろいろと書物を読んでみた。
「唐国には、表沙汰になったのにしても、内密のものにしても男女の関係が乱れたことが多い。この日本にはそのような事例は全くない。例えあったとしてもそのようなことを文章に記録することはあるまい。ただ、親王として生まれ臣下に下り、やがて大納言、大臣と昇っていかれてやがて親王に復帰されて位につかれた例として、光仁天皇、桓武天皇、光孝天皇、宇多天皇。親王になった例として、是忠親王、是貞親王、兼明親王、盛明親王ががおられる。人柄といい、頭の切れる優れた源氏大臣に位を譲ることにしようか」
などといろいろと一人で考え苦しんでいた。
秋に行われる恒例の官吏任免の日を前にして、源氏を太政大臣に任命する予定であることを内々で源氏に告げるときに帝は、僧都から聞いた自分の出生のことを話し、かねてから退位したいという思いを告げるとともに源氏に帝の位を譲位したいと告げる。聞いた源氏は目がくらむように驚き帝が大変なことを言われていると恐ろしく、そのような帝の思いが外部にでも漏れれば大変な世の乱れがくると帝に返事をした。
作品名:私の読む「源氏物語」ー29-薄雲 作家名:陽高慈雨