私の読む「源氏物語」ー29-薄雲
袴着の式はこれはというほどの用意はしなかったが、それでも世間一般の行事に比べると大層立派なものであった。紫は色々と用意をしながら、雛遊びのような気持ちがしておかしかった。招待の客達も何時もこの源氏の屋敷に出入りしている者ばかりであったので、目立った行事には見えなかった。ただ、姫は 碁盤の上に立ち襷を胸のところで 交差させて結んでいたが、その胸のあたりの様子が、とても かわいらしくて、以前にましてかわいらしさが加わったように参列者一同には見えた。
大堰の山荘にいる明石は、手放して源氏の許に預けた娘が恋しくて自分の気持ちがもう少し固ければ娘を馴れない社会に送り出さなくともよかったと、悔やむ日が続いていた。そうは言っても母親の尼君は悲しみの涙を流してはいるものの、源氏の文で孫娘が大切に扱われている消息を聞いて娘の明石には悪いと思いながらも嬉しく感じていた。こちらから娘をと言って訪れることもできないし、袴着の祝いも贈るということも出来なかったので、せめてこちらから娘について源氏の屋敷に行った宣旨の乳母やその他の女房達に、心を込めて新調した美しい装束を贈った。
源氏は明石が自分を待っていることであろうと思うのであるが、
「娘を取り上げたら通ってこなくなった、と明石は思っているだろうな」と考えると愛おしくなって、十二月ではあるが年が暮れる前に大堰の山荘を尋ねた。
その後も、淋しい大堰の屋敷で、大切に育てていた娘を源氏に捕られていろいろと苦しんでいるだろうと、源氏は絶えることなく文を送っていた。
紫も今は明石のことを憎むこともなく、自分が預かった可愛い姫に免じて心を和らげていた。
年が変わって源氏三十二歳、紫の上二十四歳、明石の君二十三歳、姫君四歳となる。空が晴れて、日影の明るくおだやかなある日、気にかかることがない源氏にとっては満足する日で、、五日あるいは六日に、五位以上に位階が授けられる叙位の議があり、七日に位記が渡される、そのお礼言上と正月の年賀に新調した装束を着て年上の人達は連れたって源氏の許にやってきた。
若い人たちは、日に関係なく遠慮無く気分よく源氏の前に年賀に現れる。また身分の低い人たちも次々と正月の祝いに来邸した。来集した人達はそれぞれ心中に悩みを抱えているのであろうが、正月の時だけは表面は満足そうに見える、という源氏であった。
新しく源氏が新築した二条東院に住まいを移した花散里も源氏の側室としての品格を持って暮らしをしていた。主の性格から側に仕える女房や童女の服装なども洗練されたよい趣味のものを着こなしていた。明石の君の大堰山荘に比べて近いことは花散里の強味になって、源氏は閑暇な時を見計らってよく彼女の許に参上していた。しかし夜を共寝をするようなことはなかった。
花散里の性格はとても優しく無邪気で、「自分はこれだけの運よりない」とあきらめることを知っていた。源氏にとってこの女ほどつき合うのに気安く思われる外の女はなかった。それで常に紫とたいした差別のない扱い方を源氏はするので、二条院の者も東の院に勤める者も、また源氏を訪ねてくる者も花散里を軽蔑することもな、彼女の方へも挨拶をしに行く者が絶えない。東院の別当も家職も忠実に事務を取っていて当院も整然とした一家をなしていた。
大堰の山荘に住む明石のことも源氏は忘れることはなかった。公私に忙しい時期が過ぎて源氏は山荘に尋ねていこうと思い、いつもより髪や顔を綺麗に整えて、桜のお直衣に、言いようもない素晴らしい衣を重ねて、香をたきしめ、体を整えて、出かけることを告げに紫の許に行く、夕方の陽に源氏の姿が映えて、その姿の美しさを際だたせていた。そんな源氏の姿を見て紫は、素直な気持ちではなく恨みを籠めて見送りをする。
明石の子である姫は、あどけなく出ていこうとする源氏の指貫の裾にまつわりついて、父親に付いていこうとするうちに、御簾の外にまで出てしまいそうなので、源氏は立ちどまって娘を見るととてもかわいいと、なだめすかして、
「明日は帰って来ますよ」
と娘を抑えて御簾の外に出ると、紫は夫を渡殿の戸口に待たせて、女房の中将の君をして、歌を告げさした。
歌は催馬楽の「桜人」
その舟とどめ 島つ田を 十町つくれる
見て帰り来んや そよや 明日帰り来ん そよや 明日帰り来ん言をこそ 明日とも言わめ 彼方に 妻去る夫は 明日も真来じや そよやさ明日も真来じや そよや
(桜の人よ その船を止めて 島の田を十町作ったから 見回りしてから帰ってくるよ そうだ 明日帰ってこよう そうだ 明日帰ってこよう。口先ならば明日とも言える あちらに 奥方を置いてきた男だから 明日も決して帰って来るまいよ そうよ 明日になんか決して帰るまいよ そうよ)
をもじって
舟とむる遠方人のなくはこそ
明日帰り来む夫と待ち見め
(あなたをお引き止めするあちらの方がいらっしゃらないのなら、明日帰ってくるあなたを思ってお待ちいたしましょうが)
紫も源氏と共に過ごすうちに彼の性格が分かってきたのか、たいそうもの慣れて詠うのを、源氏もにっこりと微笑んで、
行きて見て明日もさね来むなかなかに
遠方人は心置くとも
(ちょっと行ってみて明日にはすぐに帰ってこよう、あちらが機嫌を悪くしようとも)
二人の歌の意味を解さないではしゃぎまわっている姫を、紫はとても可愛いので、これから夫が訪ねて行く明石のことを、すっかり大目に見る気になっていた。紫は、
「明石の君はどう思っているだろうか。自分だって、貴方がとても恋しく思わずにはいられないなのに」
と、じっと源氏を見送りながら、姫をふところに入れて、かわいらしい乳房を含ませながら、あやしている様子、どこから見てもいい母親で素晴らしい。側に仕える女房たちは、
「どうしてかしら。同じお生まれになるなら、紫様から」
「ほんとうにね」
などと、愛撫する紫と懐の姫とを見て女房達は囁いていた。
大堰山荘の明石達は落ち着いて静かに暮らしていた。たしなみのあるたたずまいに、家の形も珍しく、明石は源氏が見るたびに美しくなって女として完成されて、高貴な身分の女と差がなかった。容貌や性格が女性として一段と成熟していた。源氏は久しぶりに明石と会って、
「ただ普通の受領の娘というだけで他に優れたところもないならば、世間で評判の偏屈者の父親入道の存在が困ったことである。しかし明石の人柄は立派なものである」
と思うのである。
源氏は明石の熟れきった女の姿を見て、僅かばかりの逢瀬では心が満たされず、二条の本邸に帰るのがとても苦しく思う、源氏は
『世の中は夢の渡りの浮橋かうち渡りつつものをこそ思へ』という歌を思いだし、
「夢の渡りの浮き橋か」
と小声で独り言を言って明石と共に過ごせぬことを嘆くのである。手元にあった箏の琴を引き寄せて、あの明石浜の館で弾いた琴の音を思い浮かべ、今夜もあの音色を聞こうと明石に琵琶を弾くようにと嫌がる明石に何回も催促する。明石も仕方なく琵琶を取り上げて少しばかり合奏する。
源氏は明石の琵琶を、
「どうしてこれほど上手く弾けるのであろう」
作品名:私の読む「源氏物語」ー29-薄雲 作家名:陽高慈雨