私の読む「源氏物語」ー27ー松風
「尼君様の熱心な勤行のおかげで、前世の罪軽くこのように姫は無事に大きく育ちました。有り難く感謝いたしております。俗世界をお離れになって精進なさっておられたあの地を離れて、私たちのために俗世界でお暮らしになるようなことになり感謝しています。明石では入道殿がお一人で残りになって、どんなにこちらのことを想像して心配していてくださるだろう、と申し訳なく思っております。」
懐かしさをこめて尼君に語りかける、
「一度仏門には入りながら今また現世に戻ってきた私の心の乱れをお察しくださって有り難うございます。長生きした甲斐があると思ってその嬉しさで胸がいっぱいでございます。」
と尼君はそこで涙に声を詰まらせ、
「あのような田舎の海辺で苦しそうに生えている荒磯の松のようになるのではと思っていましたが、このようにしていただいて、いよいよ頼もしい未来が将来したように思われます境遇に到達いたしましたが、御生母であるわが娘はこのような身分の低い娘でございますことが、この先の御幸福の障りにならぬかと心を痛めております。」
などと源氏に語りかける尼君は上品な感じがする。源氏は昔この辺に住んでおられた明石の尼君の祖父である中務の宮、(宮中一切の事務、皇居の警護がその職であり、中務宮は四品以上の親王が免ぜられる名誉職であった)がこの屋敷に住まわれておられたことなどをしみじみと懐かしく尼君と語り合うその二人に綺麗に修復された遣り水のせせらぎの音が気持ちよく響いていた。尼君は、
住み馴れし人は帰りてたどれども
清水は宿の主人顔なる
(かつて住み慣れていたわたしは帰って来て、昔のことを思い出そうとするが、遣水はこの家の主人のような昔ながらの音を立てています)
わざとらしさがなくまた言い切らないところに和歌に対する雅やかさを、尼君から戴いた源氏は感じた。源氏はしばらく間をおいて、
いさらゐははやくのことも忘れじを
もとの主人や面変はりせる
(小さな遣水は昔のことも忘れないのは、もとの主人は姿を変えてしまったからであろうか)
本当に懐かしいものです」
と源氏は庭の遣り水を眺めながら尼君に返歌する。庭を見るために立ち上がった源氏の姿は、このような素敵な男はこの世にはいない、と周りの誰もが思った。
源氏は嵯峨野に在る寺に詣り、毎月十四日十五日と月の終わりの日に実施されることになっている普賢菩薩の徳を称える法会、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できるという阿弥陀を称え、釈迦牟尼仏の名号を唱えて成仏を祈ることは勿論のことこれ以上に加える念仏を勧業するようにと決めて置いた。更に本堂の飾り付け、仏具ののことを堂内を見回して色々と注文を付けた。そうして月の明かりの中を明石の屋敷に帰っていった。
明石の許に返って源氏はあの流浪の身で明石にあったときのことを思い、その折りのことを彼女に話しかけるとすかさず明石は初めて会った夜に琴を合奏したその琴を取り出して源氏に弾くようにと薦める。何となく気持ちが淋しいときであった源氏は堪え切れずに琴を弾き始めた。弾き始めた琴はあの夜の時と調子が狂っていない、源氏の気持ちはあの海辺の屋敷の感覚に戻っていた。
源氏は明石に語りかけた、
契りしに変はらぬ琴の調べにて
絶えぬ心のほどは知りきや
(約束したとおり、琴の調べのように変わらないわたしの心をお分かりいただけましたか)
明石はすかさず源氏に応じた、
変はらじと契りしことを頼みにて
松の響きに音を添へしかな
(変わらないと約束なさったことを頼みとして私の琴は松風の音と泣く声を添えていました)
と源氏に応じた彼女は、今は源氏に不釣り合いな女ではないと思っていた。源氏は明石が歳を取ると共に女の艶めかしさが溢れ出てきた容姿、動作を目の前にするととてもこの女を手放すことは出来ないし、更に娘のこと、この後しっかりと守ってやらねばと思うのであった。しかし、彼は、
「どうしようか、このまま隠し女とその娘として置いておこうか、それではすまない気持ちがするし、娘を公表出来ないのは悔しいことである。姫は二条院で引き取って紫に育てさせようか、立派に養育すれば世間は何とも言うまい」
と思うのであるが、またそんな悲しいことを明石にさせるのは耐え難い、と色々と考えては源氏は口に出して明石には言えずに涙ぐんで娘をじっと見つめていた。そんな源氏を見て娘は初めは少し恥じらい気味であったが、次第に源氏になついてきて、なんとかと源氏に言っては笑ってまつわりつくのを源氏はとても可愛くてつい抱いてしまうのをこのような幸福なことがあるものかと母親の明石は源氏と三歳になった娘を見ていた。
翌日には京に戻ろうということになり源氏と明石はその夜は次の逢う日が定まらない明石の気持ちの動揺から床の中で源氏を離すことなく愛を求めたため、源氏は翌朝は少し遅く起きた。支度をしてこのまま京へ帰ろうと源氏は明石の屋敷を出ようとしたが、桂院の方に人が集まってきて、しかも高貴な人達も参上していると聞き、装束を着直して、
「困ったことをしてくれるわ、秘密にしておく場所でもないのだが」
と言いながら折角集まっているのを放っておく訳にもいかないと桂院の方に出向いた。
明石の屋敷から出るのがどうも気が引けるところに、乳母の宣旨が娘を抱いて送りに現れた。その可愛い娘の頭をんぜながら源氏は、
「お前と会えないのはとても辛いことだ。この先どうしようか。こちらに来るのは大変遠いしな」
と言うと明石は、
「遠いなんて、あの明石の浜に三年も居ましたことを思うとこんなに近くに参りましたのに、これから先私どもをどうなさるのかがとても気がかりですわ」
彼女の本音を源氏に訴える。娘が源氏に手を差し出したので源氏は跪いてその手を取り「やれやれ私は気苦労が絶えない男よね、お父様は辛いよね。どうして、この娘と一緒に出て来て私と別れようとはしないのだね。そうすれば気持ちも落ち着くでしょうに」
聞いて乳母は源氏の言葉通りを明石に伝えた。
明石で三年者間待たされたあげくの久しぶりの逢瀬であるというのにたった二日とは、と女は怒り嫉妬悔しさ入り交じって心が乱れて伏せっていた。こんな事は自分をさも貴族のように思っていると考え直し、身の程知らずと思われるだろうと渋々膝行して几帳の側に出てみる、その明石の姿は気品があってしとやかで皇女と言っても好いぐらいの容姿であった。
几帳の帷子を開けて懇ろに源氏は明石に声を掛けてふりかえる、彼女の気持ちは落ち着き娘共々見送りをする。
明石の見る源氏の姿は今、男盛りの容貌であった。初めて源氏にあったときは背丈がすらりと高く痩せて見えたのであったが、今は少し体に肉が付いて成熟したように感じ、
「これでこそ男という者だ」
と着ている指貫の裾までが男の魅力に溢れていると女房達女一同は源氏を見ていた。女達の眼は少々異常に見えた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー27ー松風 作家名:陽高慈雨