私の読む「源氏物語」ー26ー絵合
その一巻を柔らかい透かし彫りのある沈香の箱に、その箱によく似合う心葉を添えたさまなど、実に現代的である。文はなく言葉だけを伝えてくれるように、何時も自分の側にいる左近中将に贈り物とともに使者として頼んだ。あのとき出発に際して大極殿に斎宮が乗る御輿を寄付けにしたときの、見事な神々しい絵に、
身こそかくしめの外なれそのかみの
心のうちを忘れしもせず
(私はご承知のように現在内裏の外におりますが、あの伊勢へ下向される貴女を見送ったときの気持ちは今でも忘れずにおります)
と綺麗な書体で書かれてあった。
返事を差し上げないわけにはいかないと、梅壺女御は朱雀院から贈られた一巻の絵巻物をじっと見つめていたが、院の気持ちが自分にあることを知っているので返事を書くのが辛いのであった。然し意を決して昔の簪を取り出してその端を折ってその木片に、
しめのうちは昔にあらぬ心地して
神代のことも今ぞ恋しき
(内裏の中は昔とすっかり変わってしまった気がしています。斎宮として神にお仕えしていた昔のことが今は恋しく思われます)
と細かい字で書き込んで、縹色の唐紙に包んで使いにたった左近中将に渡しすとともに労をねぎらうために優美な衣を差し上げなさった。
受け取った朱雀院は斎宮の歌をじっと眺めている内に、再び帝の位を取り戻したいと思うのであった。院は簪に書かれた斎宮の歌を手に持ったままで、今の立場にした源氏が恨めしく思うのであるが、それも何かの報いであるのであろう。
朱雀院関係からの絵は、院の母親弘徽殿大后から、妹四の君とあの頭中将の子供である弘徽殿の女御にも多く集まっているし、院の女御であっても良い朧月夜尚侍の君も、絵の趣味が大いにあったので、うっとりとするような絵を描かせては弘徽殿の女御に贈っていた。
絵合の日を三月二十日に源氏が決定した。関係者はあまりに日がないので慌てたが、女房達がわいわい騒いでいる熱い内に開催するのが得策であると考えたからであった。左方斎宮の女御からの出品絵画、右かたの弘徽殿の女御からの絵を揃えた。女房が待機する場所となっている所に帝の座る場所を作り、北と南とに左方、右方それぞれ分かれて座る。内裏に昇殿を許される殿上人は、後涼殿の簀子に、それぞれがいかなる結果になるやらと胸をふくらませ興味津々で控えている。
左方の斎宮女御は、紫檀の箱に赤い蘇芳の華足の机、敷物には紫地の唐の錦、机の下の打敷は葡萄染めの唐の綺である。童六人、赤色に桜襲の汗衫、衵は左の決まりで紅に藤襲の織物である。姿、心用意など、並々でなく見える。
右方の弘徽殿女御は、沈香の箱を浅香の木で作った小型な机の上に置き、机の下に敷く打ち敷きは青地色の高麗錦、机などにかけた覆いや敷物が落ちないように足に結びつける組紐である足結の組そして机の脚の装飾は現代風である。手伝いに出ている童は右の決まりで青色に柳の汗衫、山吹襲の衵を着ている。
両方からの出展物が帝の前に揃えられた。
源氏、権中納言、が帝からの呼び出しで参内してきた。また源氏の弟に当たる師の宮も呼ばれて出席した。この人は趣味が多い人で特に絵画には造詣が深いというのでたまたま参内しているのを源氏が内々で呼んだのであろう。
今回の絵合わせの審判員として師の宮を選ばれた。よく出来た絵画ばかりが並べられているので、彼も判定が付きかねた。
先にも述べた朱雀院が斎宮女御に贈った「四季の絵」も昔の能筆の画家が一気に描き上げたもので他に比べようがない逸品で、右方も「四季の絵」を同じように出展しているので、屏風絵などと比べると紙に書いた絵は紙面が狭く山水画としては書き尽くせぬ所があり、師の宮としては、批評をするのはただ筆の使い方、絵師の趣向を見るようなものだけで、賑やかに描かれている当世風の浅薄なのもでも、昔の絵画に劣らず華やかで実におもしろいと見える。双方とも優れていて、多くの論争は両方ともに優れた作品で興味深いことが多いという結論であった。
朝食の間と女房の控え所の間の障子を開け放ってそこに藤壺中宮が座を占めて先ほどからの絵合わせを観覧していた。彼女の絵画に関する目が鋭いことを源氏はよく知っていたので、論議が詰まると源氏は彼女の知識に頼った。藤壺もそれ相応の考えを述べるのである。
評定が付かずに夜に入った。左方は最後の一品に「須磨」の巻を帝の前に差し出した。それを見て権中納言の頭中将は顔色を変えた。自分もこれこそと思う逸品を残していたのであるが、この「須磨」のように絵の技法に優れているその上に心が澄んだときに、静かな心で描いた物では、相手になる絵画はなかった。
師の宮を初めとして「須磨」を見つめている人は自然に涙が流れてきて止まらなかった。一同は源氏が須磨に流れたときの辛さ悲しさ淋しさが、この絵に集約されているのを看取って、当時の源氏のことを感じていたのであった。実際にこの絵を見ているとあの須磨での毎日の生活、さびれた浦の様子、磯部の有様が細かく描かれていたのであった。
絵の中の余白には草書体に仮名文字を所々に書き交ぜて、詳しい日記ではないが、しみじみとした文と歌などが美しい書体で書き込まれていた。見ている人はその続きの巻が見たいと思った。誰も他人事とは思われず、今まで出品された絵を全て忘れてしまって、この感慨深く興趣深い「須磨」に全員の心はすっかり移ってしまっていた、。この絵日記に
勝るものなしという結論で今回は左方の勝ちということで絵合は終わった。
夜が更けて絵合わせのなおらい宴で酒が回り源氏は過ぎ去った過去に思いが及んで少々感傷的になり杯を手にして弟の師の宮に語りかけた。
「幼いときから学問に励んできたのであるが、少しもその奥義を極めたとは思われない、亡き父院の恒に仰せになったことは『学問というものはこの世を生きるのに重要なものなのであろうか、大変学問に優れた人が、長命であったということはあまり聞いたことがない。高貴な家に生まれて人に劣ることもないのであるからそうまで学問に励む必要はあるまい』と私に注意されたことがあった、そうして色々と学ばせなさったが、どれ一つ満足に習いはしたもののどれと言って秀でたものはない。ただ絵を描くことが、人よりは少しは出来るかなと思っている。そんな私が変なことから山住まいの身になって須磨に渡り、山海の奥深い自然の風景を毎日見て過ごしましたので、まったく充分すぎるほど会得できました。それでも絵筆で描くにはは限界がありまして、心に描く風景が筆には通じないところが多くあります、そんな私が描きました物を機会がなくて、御覧に入れるわけにも行きませんでしたが、今回この席でこのように物好きのようにお見せして、後々にこともあろうにあのような物をお見せしてと噂が立ちましょうか」
作品名:私の読む「源氏物語」ー26ー絵合 作家名:陽高慈雨