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私の読む「源氏物語」ー26ー絵合

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 帝付の女房達は集まった絵画を「これがいい、あれが素晴らしい」と言ってかってに品定めをしていた。暇な女房達の毎日の仕事がこの素人批評であった。

 冷泉帝の生みの母である、藤壺中宮が参内しているところでも女房達はあれこれと批評をする、藤壺もそんな声を聞くと興味が湧き、仏の前の勤行も忘れて見入っていた。藤壺はこれではどれがどうと決着が付かないと思って、源氏からの物と、権中納言からの物とを左右に分けさせた。
 斎宮女御、今は梅壺の御方と女房達から呼ばれているのであるが、元々宮家の出でしかも伊勢の斎宮を勤めた女であるので左方の上の席に着く、付き添うのは平典侍、侍従の内侍と少将の命婦である。下座に当たる右方には弘徽殿の女御が座り、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦が付き添っていた。左右ともに従う典侍、命婦は宮中でも有名な識者であった。
 この六人がお互いに言いたいことを言って並べられた絵画を批評して結論が出ないので、先ず物語の原点であると言われている斎宮方の「竹取の翁」弘徽殿方の「宇津保物語の俊蔭の巻」を取り上げて優劣を競うことにした。
 提供者の斎宮方は
「竹取物語として古くから親しまれてきている物語であるので、目新しい物ではないのですが、竹の中で輝いて生まれ出たかぐや姫は、この世の中の汚れに触れることもなく清らかなままで月へと旅立たれました。神代時代のことでありますので深い知識もない女では、とてもこの良さは分かりますまい」と左方が言うと、弘徽殿女御の右方はすかさず、
「かぐや姫が昇り行かれた天上の世界は、とても私どもが尋ねることも出来ないところですので、姫のその後は誰も知りません。だいたい竹の中で生まれたというのは下賤な者だということではありませんか、翁の小さい家を照らしても、この広い世界を隙間無く照らされる大君には及びますまい。姫を妻としようと言い寄ってきた五人の貴公子の中で、右大臣阿部御主人様には唐国の火山にいるという伝説の鼠の毛で織るという『火鼠のかわぎぬ』を条件として大金を使わせ、あっというまに焼け失せてしまったのも可哀想なことです。倉持親王は姫に蓬莱山にあるという銀を根にして茎は金、そして実は白珠(真珠)という、三千年に一回しか開花しない優曇華を持ってくるように言われ、蓬莱に行くと騙して難波で職人に花を作らせて、それを姫に差し上げ、おもいが叶うというときになって、職人が現れて労賃をくれと請求されて花の偽りがばれてしまった、「玉に疵」とはこのことでございますはね」
 これは巨勢のの相覧という優れた画家で、なかの言詞は紀貫之であった。紙屋紙に唐から到来した綺で裏打ちして、赤紫の表紙、紫檀の軸、ありふれた表装であった。
右方の出した「宇つ保物語俊蔭の巻」について。
「俊蔭は、唐の国へ渡るときに乗船した船が激しい波風に遭遇して不幸にして沈み、彼は我々の知らない国に流されましたが、そんな危険を顧みずに目的を捨てずに突き進む内に、天人から琴と秘曲を伝えられ、外国の朝廷にもわが国にも、めったにない音楽の才能を持ち帰り名を残した。このような物語の伝えからこの絵巻を見ますと、絵の様子も、唐土と日本とを取り合わせて、興趣深いこと、やはり並ぶものがありません」
 となかなかの説明である。前に広げられたものを見ると、白い色紙、青い表紙、黄色の玉の軸で表装されている。絵は、飛鳥部常則、書は、小野道風なので、現代風でなんとなく目もまばゆいほど美しく見えた。
 左方には、反論の言葉がない。

 次に出展されたものは、左が『伊勢物語』右が『正三位』であった。これもああだこうだと言ってどちらということも決まらない。右の出してきたのは、晴れ晴れとしてきらびやかに内裏から始まって、現在の社会の有様を絵にしたもので、興味があって見所があった。
 左の平典侍は歌で応えてきた、

 伊勢の海の深き心をたどらずて
     ふりにし跡と波や消つべき
(『伊勢物語』の深い心を訪ねないで、単に古い物語だからといって価値まで落としめてよいものでしょうか)

「最近流行の色恋沙汰の軽い話に気を奪われて、業平の名が廃れてしまうようなことをおっしゃいますな」
 とは言っても完全な反論にはならない。
 右の典侍が歌で応じてきた、

 雲の上に思ひのぼれる心には
     千尋の底もはるかにぞ見る
(雲居の宮中に上った『正三位』の心から見ますと『伊勢物語』の千尋の心も遥か下の方に見えます)

 聞いていた藤壺は
「兵衛の大君の理想が高いところは見てあげなければなりませんが、業平中将の名を腐らしてしまうことは出来ませんね」
 と言われて、

 みるめこそうらふりぬらめ年経にし
     伊勢をの海人の名をや沈めむ
(ちょっと見た目には古くさく見えましょうが、昔から名高い『伊勢物語』の名を落とすことができましょうか)

 とこれも歌で応えた。
 このような女たちの饒舌で、決定的な言葉もなく優劣を争うので、一巻の判定に喉がかれるほどにしゃべっても簡単には結論が出ない。興味のある女房達は、作品を見たくて溜まらないのであるが、帝付きの女房も、藤壺中宮の女房も、論争の的である作品の一部分さえ見ることができないほど、人目を避けての論争であった。六人の典侍と藤壺だけが目を通していたわけである。

 女達がわいわい騒いでいるところへ源氏大臣が参内してきて、女達が勝手な意見を言っているのを面白く見ていたが、 
「同じことなら帝の前で勝負をしてみたらどうかね」
 と提案した。
 こんなこともあろうかと源氏はあらかじめ所蔵する絵画の中でこれはと思うものは宮中には持ってきていなかった。然し自分の絵日記であるあの『須磨』『明石』の二作だけはなぜか宮中に持って上がった中に紛れ込ませていた。
 頭中将、かって源氏の亡き妻葵の同腹の兄である。彼も我が娘を弘徽殿の女御として帝に差し上げているので、この度の絵合のことに関しては負けてはいないのであった。現在都で評判が高い紙や絵師を集めることに熱を入れていた。「今作品を描かせても、今回の趣旨からはずれるのでは、現在お持ちの絵画を出されてはどうか」
 と源氏が言うのであるが、中納言の唐中納言はそのようなことを意に介せず、人に見られないように秘密の部屋を絵師にあてがって
次々に新しい絵を描かせた。朱雀院もこのような絵合のことを聞いて、自分の持っている絵を斎宮女御である梅壺に贈りなさった。
 一年の節会の有様を描いた物は人々が喜んで見るが、それを昔の有名な絵師がそれぞれ個性ある絵に仕上げている。延喜の帝と呼ばれる醍醐天皇がその絵に直筆で言詞を書き入れてあった。更に院は自分が帝の頃のことも描かせて一巻としていたのであるが、その中に梅壺がかって斎宮として伊勢に下る際、大極殿で催された式典の模様が自分の心の中に染みついているのを、詳細に語って当代随一の公茂絵師が絵画にしたのが挿入されていた。そういう意味有りのものを贈ったのであった。