私の読む「源氏物語」ー24-蓬生
「どういうことからか、源氏大納言殿の御八講に招待されての帰りである。大変荘厳な催しでした。そこらの極楽浄土をまねた装飾に劣らないほどの飾り付けで、あらゆる手を尽くして荘厳さを表現しておられました。あの方は、仏か菩薩がこの世に現れたのではなかろうか、五濁にまみれたこの世にどうして生まれてこられたのであろう」 と言い置いて帰っていった。禅師の言う五濁とは、劫濁(飢饉・悪疫・戦争など時代の汚れ)・衆生濁(身心が衰え苦しみが多くなること)・煩悩濁(愛欲が盛んで争いが多いこと)・見濁(誤った思想や見解がはびこること)・命濁(寿命が一○歳まで短くなっていくこと)この五つの濁りを言うのである。
この禅師は普通の人とは違って、言葉は少なくて、世間のありふれた話などはしないので末摘花もただ源氏が素晴らしい法要をしたということだけを聞かされて帰ってしまったので、
「そうであるなら源氏様はこの私のような悲しい目に遭っている者を省みられることもなく、何という仏、菩薩であるのか」とつくづく身に染みて思っているところに、れいの叔母が急に訪れてきた。
常々そんなに末摘花と親しく交際があるのではないのに、叔母は彼女を太宰府に連れて行こうと思って、今日は彼女の衣装を新しく誂えて、立派な車に乗って得意満面の顔で都合を聞くでもなく突然にやってきたのである。叔母は供の者に門を開けさせると目の前の風景は荒れ果てた気持ちの悪い惨憺たる屋敷の風景であった。左右の小門は皆朽ちて動かなくなって、男達があちらこちらと支えを作ってやっとの事で開門した。このように荒れ果てた邸内にも、門へ行く道、井戸へ行く道、厠へ行く道、この三つの道はあるものとたどって進んだ。
やっと南面の格子を上げたところに車を止めてさてどうしたものかと思っていると、煤けた几帳を上げて侍従の女房が現れた。
まえに会ったときよりも面やつれしているなとこの叔母は見て、さらに歳もとったな、然し上品な顔立ちはここの姫である末摘花と替わっていればいいのに、と思った。
「もう出発しなければならないのですが、こちらのことが気がかりなものですから、今日は侍従の迎えがてらお訪ねしました。私の気持ちを考えてくださらなくて、貴女は少しもお出でがないので、九州行きは承知なさらないのはもう仕方がありません。ただ、せめて侍従だけをよこしていただくようにお許しいただけるように参りました。見るところ、まあ、大変なお暮らしをしていらっしゃるのですね」
と言って相手の気持ちを考えて涙が溢れてくるのであるが、太宰府の次官として赴任する夫に付いて行く喜びがつい悲しみを上回ってしまっていた。叔母はさらに、
「貴女の父宮様がご存命の時、私が身分の低い者と結婚したことを恥じておられ、私もこちらとの交際を止めておりました。あなた方の気位の高いことには私はどれだけ傷つけられたことでしょう。更に源氏大将様との関係が出来てから一段と気位高くお暮らしでしたので、とても私どもが訪れることが出来ませんでした。世の中というものは定めがないものです、私どものような身分の低い者は気楽におくれます。今の貴女の生活を見ていますと、とても暮らしていけないような大変なご様子であります。近くにおりますときには貴女のことを心配して見に来てあげることも出来ますが、この度遠く九州の地に行くことになりました、貴女のことがとても気がかりになっています」
と末摘花の九州行きを薦めるのであるが、彼女はどうしても心を広げることがなかった。
「大変ご親切なことでありますが、世間離れの私にはとてもお言葉に甘えることが出来ません、このまま朽ち果てようと考えております。」
とだけぽつりと答えて黙ってしまう、叔母は、
「貴女がそう思いになるのはごもっともですが、生きている人間が、こんなひどい屋敷に住んでいるとはほかにありませんよ。源氏大将様が修繕をしてくだすったら、またもう一度玉のように立派な屋敷になるかと期待されていると思いますが、近ごろはあのお方が、兵部卿の宮の姫君紫の上のほかはだれも嫌いになったようですね。昔から女関係が派手な方でしたが、それも皆清算してしまったそうですよ。ましてこんなみじめな生活をしている貴女なんか、操を立てて自分を待っていてくれたかと、気に掛けていただくなんて難しいことですよ」
と言われるのを聞きながら末摘花は、本当にそうだは、と泣き崩れるのであった。
これだけ話をしても一向に末摘花の気持ちが動こうとしないので、更に叔母なるひとは彼女の気持ちを動かそうとするが、とうとう言う言葉もなくしてしまい、
「それでは、侍従の女房だけは戴いて参りますよ」
と、日暮れも近くなったのでそわそわして、帰ろうとする。侍従は涙を流しながら主人の末摘花にこっそりと、
「それでは今日はこの辺で、こんなにお勧めになるので、せめて、叔母君をお見送りするつもりで行って参ります。あのお方が貴女にお勧めなさるのももっともなことで、また貴女様がお断りになってここにお住みになられることも道理に叶っています。中に入ってそれを見ているのが辛うございます。」
と末摘花の耳元で囁くようにつげた。
末摘花は父姉妹のこの子までが自分を捨てて行こうとしていることに、悲しく、恨めしくあるが、言い止める方法もなくて声を大きく泣くばかりであった。
末摘花は侍従に形見として与えたい衣服を考えるのであるが、全てもう着古して悪くなっていて、長い間の侍従の好意に酬いる物がない、そこで自分の抜け毛を集めて鬘にした九尺ぐらいの長く美しいのを、風流な箱に入れて、昔のよい薫香一壷をそれにつけて侍従へ贈った。そうして、
絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら
思ひのほかにかけ離れぬる
(あなたを絶えるはずのない間柄だと信頼していましたが、思いのほかに遠くへ行ってしまうのですね)
私の乳母で貴女の母様が言い遺されたこともありましたので、こんな力のない私ではありますが、最後まで一緒にと思っておりました。貴女が私を置いてここを去っていくのは仕方がないことではあるが、誰が貴女の替わりに私のことを最後まで面倒を見てくれるのかと、情けない恨みの気持ちで一杯です」
と言って末摘花はどうっと泣き崩れてしまう。侍従もこの有様でものが言えないほど悲しんでしまった。
「母の乳母が貴女様に申し上げましたことは申すまでもありません、そのほかにもごいっしょに長い間苦労をしてまいりました。それを思いがけない縁に引かれて、しかも遠方へまで行くようになりまして」
玉かづら絶えてもやまじ行く道の
手向の神もかけて誓はむ
(お別れしましてもお見捨て申しません、行く道々の道祖神にかたくお誓いしましょう)
命のございます間はあなた様に誠意をお見せします」
と侍従は主人に答えた。
「そろそろ暗くなりますよ」
叔母に言われて侍従は思考することが出来ないままに末摘花の前を去ったのであるが、帰途の車中では主人のことばかりが頭の中に浮かんできていた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー24-蓬生 作家名:陽高慈雨