私の読む「源氏物語」ー20-
「お聴きになるには何の支障もありません。どうぞ御前にお召しになって下さい。高貴な方々の中では当たり前のことですが、身分の賎しい商人の中でさえも古曲を上手く弾きこなす者もいました。また琵琶については、本当の音色を弾きこなす人は昔も少のうございましたが、娘はなめらかに少しも滞ることなく優しい弾き方は格別でございます。そのようにどうして弾けるようになったのでしょうか。この地の荒い波の音と一緒なのは、音曲を嗜む者にとっては演奏の妨げとなって悲しいのですが、それでも荒波の音に積年の心の愁えを慰められることもございます」
などと入道が風流者がっているので、源氏は娘の演奏を聴くのもおもしろいと思い、箏の琴を入道に渡した。
なるほど入道は言うだけのことはある、たいそう上手に演奏した。現在では知られていない奏法を身につけていて、手さばきもたいそう唐風で、余音を波うたせるため、左の指先を弦に軽くおいてゆす揺の音が深く澄んで聞こえた。「伊勢の海の清き渚にしほかひになのりそや摘まむ貝や拾はむや玉や拾はむや」催馬楽の歌をここは明石で「伊勢の海」ではないが、「明石の海の清い渚で貝を拾おう」などと、声の美しい人に歌わせて、源氏自身も時々拍子を取り、声を添えることがあると、入道は琴を弾きながらそれをほめていた。お菓子など、珍しいさまに盛って差し上げ、源氏の供人達に酒を大いに勧めたりして、いつしか源氏は物憂さを忘れてしまっていた。
夜も更けてきて、浜風が涼しくなって、月も沈む頃になるにつれてますます澄みきって静かになった。入道は自分の気持ちを残らず源氏に申し上げ、この明石の浦に住み初めたころの心づもりや、来世を願う思いなど、ぽつりぽつりと語り、さらに自分の娘の様子を、問わず語りに源氏に語る。入道の話を源氏はおかしくおもしろいと聞く一面で、やはりしみじみと彼の気持ちの中のわだかまりを不憫なことよと聞く点もあった。
「このようなことを取り立てては申し上げにくいことでございますが、あなた様が、このような思いがけない明石の土地に、一時的にせよ、移っていらっしゃいましたことは、もしや、長年この老法師の私が祈願いたしました神仏が私を憐れと思われて、しばらくの間、源氏様にご苦労をお掛け申し上げることになったのではないかと考えております。
それは、私は住吉の神をご祈願申し始めて、今年で十八年になりました。娘がほんの幼少でございました時から、私は考えがありまして、毎年の春秋ごとに、必ずあの住吉の御社に参詣することに致しております。晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の昼夜六回の勤行に、自分自身の極楽往生の願いは、それはそれとして、ただ自分の娘に高い望みを叶えてくださいと、祈っております。
前世からの続きで私どもは運に恵まれませんで、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、私の父は大臣、その弟が按察大納言であなた様の母上桐壷更衣さまの父上という家系でありました。私は自分からこのような田舎の民となり都を離れました。それでもこの先子々孫々と落ちぶれる一方では、終いにはどのようになってしまうのかと悲しく思っております。しかし、わが娘には生まれた時からなんとなく頼もしく思うところがありました。私は何とかして娘を都の高貴な方に差し上げたいと思い、固く決心いたしました。私の身分が低ければ低いなりに、多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってつらい目に遭うことが多くございましたが、娘のことを思うと少しも苦しみとは思っておりません。自分が生きておりますうちはたいした力がありませんが微力ながら娘をしっかりと育てましょう。娘にはもし私がこのまま先立ってしまったら、お前は海の中に身を投げてしまいなさい、と申しつけております」
などと、全部はお話できそうにもないことを、泣く泣く申し上げる。
源氏も都を離れいろいろと考えることがある時なので、入道の話が身につまり涙ぐみながら聞いていた。源氏は、
「私は自分は無実と思っていますが罪に当たって、このようにこの地で思いもよらないさすらいの旅路の身です。何の罪でこのような暮らしをと分からなかったのですが、今夜入道の話をうかがって自分の身と合わせて考えてみると、入道と私は従兄弟になる、なるほど浅くはない前世からの宿縁であったのだと、しみじみと分かった。どうして、このようにはっきりとご存じであったことを、今まで話してくださらなかったのですか。私は都を離れた時から、世の無常に嫌気がさし、勤行以外のことはせずに月日を送り、すっかり生きていく気力を無くしてしまっていました。お話のような娘さんのいられるということだけは聞いていましたが、罪人にされている私を不吉に思いになるだろうと思いましてとても娘さんに会うことなど考えもしなかったのですが、それでは娘さんにご紹介願えるのですね、心細い独り住みの心が慰められます。」
と言う源氏の言葉に入道はこの上なく光栄に思った。入道は、
一人寝は君も知りぬやつれづれと
思ひ明かしの浦さびしさを
(独り寝はあなた様もお分かりになったでしょうか、所在なく物思いに夜を明かす明石の浦の心淋しさを)
まして娘のことは長い年月ずっと願い続けてきました私の心の重みを、お察しくださいませ」
と源氏に訴える入道の様子、身を震わせて語っていたが、それでも気品は失っていなかった。
「それでも、海辺の生活に馴れた娘さんは」 と源氏は言って入道の歌に返歌を詠う、
旅衣うら悲しさに明かしかね
草の枕は夢も結ばず
(旅の生活の寂しさに寝付かれず夜を明かして、安らかな夢を見ることもありません)
と、ちょっと寛いでいる源氏の姿は、入道の目に魅力的で、何ともいいようのない美しく映った。源氏は入道の娘明石の君を側に置くことを承知したのであった。
長々と筆者は書いたが、何と煩わしいことよ。誇張を入れて書いたので、ますます、馬鹿げて頑固な入道の性質が現れてしまったことである。
入道は願いが、念願の希望がやっと叶ったと、すがすがしい気持ちでいると、翌日の昼頃に、源氏は山手にある入道の居宅へ手紙を送った。奥ゆかしい娘らしい、かえって、このような辺鄙な土地に、意外な素晴らしい女が埋もれているようだと、源氏は気遣って、高麗の胡桃色の紙に、いろいろと念入りに趣向をこらしてまず歌を、
をちこちも知らぬ雲居に眺めわび
かすめし宿の梢をぞ訪ふ
(何もわからない土地にわびしい生活を送っていましたが、お噂を耳にしてお便りを差し上げます)
「思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを」(あの人を想う心の激しさには何とか堪え忍ぼうとすることの方が負けてしまった。決して思いは表面には現すまいと思っていたのに」(古今集)
と源氏の思いはあったのであろう。
入道も、源氏の文を待って山手の屋敷に来ていたのが、期待どおり源氏の使いが主人の文を携えてやって来たので、文を受け取って使者が恐縮するほど酔わせた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー20- 作家名:陽高慈雨