私の読む「源氏物語」ー16-
源氏は静かに、世の中のことを考えると、煩わしいことの多い屋敷に帰ることも億劫な気持ちになりこのまま出家をと考えることもあるが、屋敷に残してきた紫の君の身の上が心にかかるので、長くはここで逗留出来ないという気持ちがやはり大きくて、寺に御誦経の御布施を沢山さしだし、すべての身分の上下を問わず法師達、寺の周辺の住民達にまで、物を贈り、あらゆる功徳を施して、帰ることにした。源氏をお見送りしようと、あちらこちらに、貧し寺の庭掃除人達が集まっていて、涙を落としながら拝むようにして見送る。源氏は服喪中であるので黒い車の中に、喪服を着て質素にして座っていて、外からはよくはっきり見ることが出来ないが、かすかに見える姿が、またとなく素晴らしい人と見送り人達は思っていた。
若紫の上は、源氏が留守にした数日間に、いっそう美しく成長した感じがして、とても落ち着いて、夫の源氏との仲が今後どうなって行くのだろうと思っている様子が、源氏には大層いじらしく見えるので、源氏は自分の浮気心が自分の胸中にさまざまに乱れているのが紫には分かるのだろうか、「風吹けばまづぞ乱るる色変はる浅茅が露にかかるささがに」と先に貰った彼女の歌にそんな心配事が隠されていたのか、と彼女の小さな胸の内を考えると源氏は彼女がかわいらしくてたまらない、いつもよりも仲睦まじく二人は話していた。
山の土産に持ち帰った紅葉を、庭先のと比べて見ると格別に一段ときれいに紅に染まっていた。恋しい藤壺にしばらく文もせずに無沙汰をしているが、そのままにはできにくく、藤壺のことを考えると心がまた熱くなるので、ただ普通の贈り物として藤壺に差し上げるようにと、王命婦に文を、
「藤壺様が内裏に参内されたのを、お久しぶりに上がられたのかと珍しいことと聞ききましたが、亡き院に東宮とのことを頼まれながら、ご無沙汰いたしておりますので、気がかりに思っていましたが、仏道修行を致そうと、計画しましたことを、無駄にしてはと、何日間か修行に入ってしまいました。この紅葉はあまり美しいので、独りで見ては勿体ないと思い差し上げます、よい折に御覧下さいませ」
と言うようなことを書いて送った。
藤壺は命婦から受け取ると、源氏が贈った紅葉はなるほど立派な枝ぶりなので、目も惹きつけられる。よく枝を見るといつものように、ちょっとした文が結んであった。女房たちが見つけて開いて文面を読んでいるので、顔色を変えて、
「依然として、このような卑劣なことを止めないのが、ほんとうに嫌なこと。あれほどに思慮深い人がどうしてこんなことを考えもなくするのだろう、女房たちも二人の間をきっと誤解して変だと思うであろう」
と、源氏のやり方にがに食わなく思い、贈ってきた紅葉を瓶に挿させて、廂の柱のもとにほっておいた。
春宮に関する事柄で相談したいことは、藤壺は源氏を頼りにしている様子であるが、源氏からの文に対してはただ事務的に感情を入れないで素っ気ない返事ばかりするので、源氏は、「どこまでも感情を入れずに冷静な方である」と、藤壺に対して愚痴をこぼしながら読んでいるのであるが、今まで春宮のどのような事でも後見していたので、自分が春宮に会わずにいることは、「女房達が変だと、怪しんだりしたら大変だ」と思い、藤壺が内裏を退出する予定の日に、源氏は春宮の下に参内した。
参内して源氏はまず、朱雀帝の前に参上すると、帝はくつろいでいたところで、二人で昔のこと今の問題になっていることを話をする。帝は容貌も、亡き父院にとてもよく似てきて、その上に父の院よりも一段と優美な点が付け加わって、風貌は優しく穏やかである。お互いに懐かしく思っていた。
朧月夜の尚侍と源氏とのことも、二人は依然として仲が切れていないと帝は聞いているのであるが、それらしいと源氏と朧月夜が見合っている所などをちらっと見る折もあるが、帝は
「今に始まったことならばともかく、前から二人の仲は続いていたことなのだ。そのように仲睦まじくしても、おかしくはない二人の仲なのだ」
と、少し無理はあるのだが強いてそう考えて別に源氏や朧月夜を、咎めようとしなかった。
帝と源氏は、学問上で不審に思っていることを尋ねたり答えたり、また、少し色事に近い歌の話なども、お互いに打ち明けて話したりしている内に、あの伊勢の斎宮がお下向する日のことになり、斎宮がとても美しくおいでであったことなど、帝が話しをするので、源氏も気を許してしまって、つい野宮で六条御息所としみじみとした別れの夜を過ごしその明け方の様子も、すっかり話してしまった。
二人があれこれと話をしている内に夜も更けていき丁度、二十日の月が山の端からだんだん差し昇ってきて、風情のある風景になってきた。帝はその様子を見ている内にふと、
「管弦の演奏を二人でして見ようじゃないか、どうひさしぶりだから」
と源氏に促すが、いつもならすぐに用意をして演奏するのであるが、
「藤壺中宮が、今夜、内裏から御退出なさるそうで、そのお世話に参ろうと思っておりますので失礼をいたします。父院の御遺言もありますので、私の他に御後見申し上げる人もおられないようで。春宮のことが、気がかりでありますから」
と帝に管弦の合奏を断る。朱雀帝は、
「父院は藤壺の子供である弟の東宮を、わたしの養子にしてなどと、御遺言されたので、特に私は気を配っているのであるが、特別に他の者と区別した扱いをしなくともれっきとした春宮である。あの子は年の割に、書の方も格別に立派であるようだ。何事においてもぱっとしないわたしの面目をほどこしてくれることになるのではないか」
と、源氏に春宮のことを語られる、
「そうですね、お見かけしたところ、いろいろな動作のなかに、とても賢く大人のような様子が見られますが、まだ、とても不十分で」
などと、源氏は自分の見たところを言う。 帝の前から退出する時に、弘徽殿大宮の兄弟の藤大納言の子で、頭の弁という者が、今は右大臣の一党が時流に乗っているので、時めいて注目を浴びている若者なので、宮中で何も気兼ねすることがないのであるあろう、朱雀院の女御である妹の麗景殿のところに行く先を源氏が先払いのように歩いていると、ちょっと立ち止まって源氏に、
「白虹が日を貫いた。太子は、懼ぢた」
と『史記』『漢書』にある、太子丹が刺客を秦王に放った時、その天象を見て不成功を恐れたという章句を、たいそうゆっくりと朗誦したのを、源氏は自分が皇太子を擁して帝に謀叛を企てているようだが、成功しないぞと、あてこすって言ったものと、嫌なことを堂々と言う者だと聞いていたのだが、源氏は今では咎め立てできる身分ではなくなっていた。弘徽殿大后の性格はひどく恐ろしく、悪い噂ばかり聞いているうえに、このように弘徽殿大后のみならず、その近親者までが態度に表して源氏達左大臣一族を非難しているようだ。源氏は困ったことだと思ったが、知らないふりをしていた。
「帝の御前に伺候して、今まで話をしていまして、夜遅くなってしまいました」
と、御簾の内にいる藤壺に挨拶する。
作品名:私の読む「源氏物語」ー16- 作家名:陽高慈雨