私の読む「源氏物語」ー15-
九月七日の半月が明るく輝いているなかを源氏の立ち居振る舞いが誰も真似をすることが出来ないほどに優美であった。何ヶ月もの間御息所を訪ねなかった言い訳をつぎつぎと言われるその声もとても心にしみてくる、手にした折った榊を御簾の下から差し入れて、「変わらない榊の緑を目標にしてこの神聖な垣根を越えて参りました。それなのになんと薄情なおもてなしですこと」
源氏は御簾の奥に座る御息所に声をかけると。
神垣はしるしの杉もなきものを
いかにまがへて折れる榊ぞ
(ここには神域を示す杉の木がありませんのに、どうして榊を折ってこられたのでしょう)
と御息所が歌で源氏に答えると、源氏は、
少女子があたりと思へば榊葉の
香をなつかしみとめてこそ折れ
(恋しい人が住むあたりと思い、懐かしい榊の香りに止められて折ってきました)
周囲の目が気になるが源氏は御簾を頭からかぶって柱に寄りかかって御息所に返歌をした。
源氏と御息所が自由に逢っていた頃は、彼は、この女は自分にぞこんである、と確信していたから、体が求めるときだけ彼女を抱きに訪れて、普段はそう気にもとめずにいた。また源氏は心の中では、「あの葵を呪い殺した生霊の女」と気がついてから彼女への愛や興味も冷めてしまい、二人の間が次第に遠くなってしまった。
ところがこうして久しぶりに話し合ううちに、源氏はかつて親しく通う頃に共にした「閨」のことが思い浮かんできて、「あのころは」と胸一杯切なくなってきた。過ぎ去った時とこれからのことを考えると思わず泣いてしまった。
御息所はそんな源氏の姿を見て、ともすれば自分の心が源氏に傾いてしまうのを懸命にこらえていた、だが、源氏の語りそして泣き伏す姿を見て、昔、可愛くてたまらなかった年下の愛人に戻って、ふと、気持ちが源氏の胸に飛び込みそうになってくるので、
「もうそのぐらいにしてください」
とかろうじて源氏を制止した。
月も沈んで淋しくなった空を眺めて源氏は思いの丈をぶちまけたから、御息所から逢うことを拒絶され続けた恨みも消えてしまったことであろう。やっと彼は別れる決心がついて「それでは」と言うが御息所への思いが残って「そうだけれども」となかなか腰を上げようとしない。
二人が見ているこの境内は宮中勤めの位の高い若者達が散策する絶好の場所である。その張りのある力強い庭園は何処にでもあるものではないと源氏は感じていた、その上に神域である。源氏は御息所の体を求めたいが場所柄を考えて我慢をするが、それでも彼女のそばへづかづかと急いで進み御息所が源氏の気配を察して急いで立ち上がるのを制して、耳元でさらに二人だけの愛欲のこもった言葉をささやく、その内容はここで文にすることが出来ない、二人だけの過去の熱いものであった。
やがて夜が明けて少し空が白くなってきた。源氏は自分たちの別れを演出されるように感じ、
暁の別れはいつも露けきを
こは世に知らぬ秋の空かな
(明け方の別れは本当に辛くて何時も涙に濡れるのだが、貴女との今朝の別れは今まで経験したことがない辛いもので、私の涙で秋空は曇ってしまいました)
源氏は御息所に歌を贈りながらずうっと彼女の柔らかい手を握っている。彼女のぬくもりが伝わってきてとても懐かしく思わず彼女を抱きしめたくなった。
冷たい風が吹いてきて、松虫が二人の別れを悲しむかのように鳴き続けている。そんな二人と関係がないものまでが気にしているほどであるので、見合わす二人の眼は、これ以上近づけない肉体の悶えを訴えている、そんなに波打っている彼女の心は簡単に源氏の歌の返歌が思いつかない、じっと潤んだ目で見つめている。しばらくして、御息所は、考えをまとめて、
おほかたの秋の別れも悲しきに
鳴く音な添へそ野辺の松虫
(秋の別れは悲しいもの、それを察しても野の松虫が連れ添って泣いてくれる)
お互いに肉体が不燃焼のままで別れるのはとても辛いことである。空が明るくなっていくので源氏は仕方なく帰途についた。道は露でしっかりと濡れていた。
御息所も燃え尽きなかった自分の体をどうすることも出来ずに立ちつくし源氏を名残惜しく見送っていた。久しぶりの源氏の姿、たまらないほど彼の香りが自分の衣に染み付いて遺っていた。周りの若い女房達が源氏と関係したいという気持ちを遠慮なく表に出して、源氏を褒めちぎっていた。御息所は、
「今回の伊勢行きは大事な旅であるが、あの源氏を見捨てて行くには忍びない」
と気丈に振る舞っていた緊張が解けて遂に泣き伏してしまった。
後朝の文はたいそう細やかな文章で綴られていた。読む御息所の胸にぐっと迫ってくるものがあったが、もうどうすることも出来ないところまで斎宮の伊勢下向が決まっていた。
源氏は心の中ではさほど真剣に思っていないことでも、文章には情感が籠もっていた。二人とも並々ならぬ仲であったから、こんな別れ方をするのが心残りでならなかった。
源氏は自分の気持ちで御息所の旅装を女房に至るまで整えて贈った。しかし御息所からは何の礼状もなかったし、出発の日取りの連絡もなかった。御息所は、二人の悪い噂が都に流れ、自分の犯したこととはいえ伊勢行きが近づくに連れて日夜心が重くて嘆いていた。
娘の斎宮は若いのでなかなか決まらなかった伊勢下向の日が決定して喜んでいた。都の役人達の間には母親の御息所が斎宮に従って伊勢に下向することをあまり例がないことで非難の言葉と同情の声が入り交じって賑やかであった。この問題が人々の口にあがらないことは難しいことであった。
九月十六日斎宮は伊勢行きのお祓いを桂川で実施した。お見送りを担当する長奉送使、それに従う上流役人も名の知れた有名な人達が任命されていた。亡き桐壺院の意向もあったことであろう。
出発の日御息所は源氏から最近何回も送られてきた文と同じように別れることの辛さを縷々述べた文を受け取った。読んでみると、「恐れ多くも御前に」と木綿の布きれに取り付けて、
「天を守る雷神の神、地上を守る国つ神も心あるならばこのような非情な別れ方をしなければならない理由を私たちに教えて下さい」 という文面であった。御息所は出発の慌ただしい時であったが、返事をしたためて源氏に送った。娘の斎宮も女別当に同じように返事の文を書かせた。
国つ神空にことわる仲ならば
なほざりごとをまづや糾さむ
(神があなた方二人を裁かれるならば、源氏様、あなたの不誠実なお言葉をまず問題にされるでしょう)
源氏は、斎宮と自分の想い人である斎宮の母親である御息所の出発の姿が見たくて出発地である内裏に参上しようと思うのであるが、自分を捨てたようにして伊勢に行く御息所のことを考えると、あまりいい感じがしないので逢いたいのであるが思いとどまって屋敷にいて退屈そうに庭を眺めていた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー15- 作家名:陽高慈雨