私の読む「源氏物語」--14-
高欄に頬杖を突いている姿、「女であれば先だって死んだ場合に魂は必ず離れて行くまい」と、色っぽい気持ちで、ついじっと見つめながら、源氏の近くに座った。源氏はくつろぎの姿でいたが、客に敬意を表するために、直衣の紐だけは掛けた。源氏の衣装は、中将よりも少し濃い鈍色の夏のお直衣に、紅色の光沢のある単衣を下襲していた。地味な姿であるのが、かえって見飽きない感じがする。
中将も、悲しそうなまなざしでぼんやりと前栽を眺めていた。
雨となりしぐるる空の浮雲を
いづれの方とわきて眺めむ
行方なしや」
(妹が時雨となって降る空の浮雲を、どの方向の雲かと眺めようか)
行く方も分からないな」
と中将が独り言のように詠うのを、源氏は受けて、
見し人の雨となりにし雲居さへ
いとど時雨にかき暮らすころ
(妻が雲となり雨となってしまった空までが、
ますます時雨で暗く泣き暮らしている今日この頃だ)
と詠うその姿は、中将は妹葵を思う源氏の深い気持ちとはっきりと分かるので、
「妙にここ数年来は、院となられた桐壺帝のご寵愛、父左大臣の好意、母が桐壺帝の妹で源氏の叔母、そんなものが彼を葵の許に引き止めているだけで、妹を熱愛するとは見えなかった、そんな彼の立場が分かるので彼に同情する気持ちがあった。しかし今の源氏を見ると表面とは違った動かぬ愛を妹葵に持っていたのだ」
と頭の中将はこの時はじめて気がついた。それが分かるとまた妹の死が借しまれる。何かにつけて光が消えたような気がして、自分も元気をなくしていた。
源氏は枯れた前栽の下草の中に、龍胆、撫子などが咲き出したのを女童に折らせ、中将が帰った後に、我が子夕霧の乳母の宰相の君に渡して葵の母である大宮に持たせた。
草枯れのまがきに残る撫子を
別れし秋のかたみとぞ見る
にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ
(草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を、秋に死別れた葵の形見と思い眺めています
亡き葵よりは美しさが劣っていると御覧になりましょうか )
と文を添えて差し上げた。撫子にたとえられた夕霧はほんとうに花のようであった。母宮は、吹く風に散る木の葉よりももろい涙で、源氏の文を手に取ることさえできない。
今も見てなかなか袖を朽たすかな
垣ほ荒れにし大和撫子
(ただ今見てもかえって袖を涙で濡らしております、垣根も荒れはてて母親に先立たれてしまった撫子なので)
と大宮は返歌を贈った。
依然として、源氏はすることがなくて退屈であるので、恋人の一人である朝顔の宮を思い出して、彼女ならば、私の物悲しさは、分かってくれるであろうと、暗くなったが、文を送った。
たまにしか消息がないが、それが普通になってしまったので、受け取った女房は気にも止めず朝顔の姫に渡した。。時雨時の薄墨色の唐紙に、
わきてこの暮こそ
袖は露けけれ
もの思ふ秋はあまた経ぬれど
いつも時雨は
(とりわけ今日の夕暮れは涙に袖を濡らしております、今までにも物思いのする秋はたくさん経験してきたのですが
いつも時雨の頃は」
と書き送った。朝顔は源氏の筆跡がとても入念に書かれているのが、いつもより見栄えがして、
「源氏様は葵の上を亡くされて、気持ちが乱れておられ放って置けない時です」
と女房が言うし、自身もそのように思うので、源氏に文を、
「『白雲の九重にしも立ちつるは大内山といへばなりけり』兼輔が大内山に宇多上皇が出家後篭られたのこう詠っています、源氏様もこのような勤行一途の毎日でございましょう、お引き籠もりのご様子を、お察し申し上げながら、とても」と書かれてかって、
秋霧に立ちおくれぬと
聞きしより
しぐるる空もいかがとぞ思ふ
(秋、霧の立つころ、葵様に先立たれなさったとお聞き致しましたが、それ以来時雨の季節につけいかほどお悲しみのことかとお察し申し上げます」
とだけ、悔やみの文の例でかすれた墨跡であるのが、源氏は気のせいか朝顔の君を奥ゆかしく感じた。
結婚したあとで以前恋人であった女を懐かしく結婚した女よりもよい女であったと思うことは稀であるが、源氏の性癖からまだ夫人にすることができない恋人のすることはすべて心が惹かれるのである。源氏にとっては朝顔は冷たい女であるが、ある時は同情を惜しまない彼女とは永久に友愛をかわしていくことだろうと源氏は思った。
「私をすげなく扱いながらも、しかるべき時の情趣は見逃さない、こういう間柄こそ、お互いに情愛を最後まで交わしてつき合いができるものだ。やはり、教養があり風流好みで、人目にも付くような女は、よけいな欠点も出て来るものだ。紫を、決してそのようには育てないようにしよう」と考えた。紫は「所在なく恋しく思っていることだろう」と、忘れることはないが、まるで母親のない子を、一人残して来ているような気分であるので、会わない間は、気がかりで、「さぞかし恨んでいるだろう」と心配するようなことはなく、気楽なことであった。
日がすっかり暮れたので、大殿油を近くに灯して、主立ったお付きの女房たちばかりが源氏の前に集まって世間話を始めた。
葵の上の女房であった中納言の君という女房を源氏は、数年前から葵に内緒でこっそりと愛人にしていたが、葵の喪中の間は、そのような関係を持つようなことはなかった。そんな源氏を彼女は「やさしいお心の方だ」と感心していた。源氏は集まった女房たちに親しく話しかけて、
「喪中の間私はだれとも毎日このように話し合ったり、菓子をつまんだりして一緒に暮らしている、もうすっかりこの生活に馴れてしまったよ。この先喪が明けてこんなにのんびりとはできなくなり、忙しくなったらみんなと集まって話をすることもなくなり寂しくなるだろう。葵の亡くなったことは別として、ちょっと考えてみても人生にはいろいろな悲しいことが多いね」と源氏が話すと聞いていた女房たちみんなが泣いて、
「今さら申してもしかたのない葵様の事は、ただ心も真っ暗に閉ざされた心地がいたします、それはそれとして、源氏様がこの屋敷からすっかりお離れになってしまわれると、存じられますことが」
と、女房は最後の方は言葉がでない。源氏はかわいそうにと一同を見て、
「すっかりよその人になるようなことがどうして出来るものか。私をそんな軽薄な人間と見ているのだね。気長に私を見ていてくれる人があればわかるだろうがね。しかしまた私の命がどうなるだろう、その自信はない」
と言って、源氏は燈火を眺めて目元を濡らしている、女房たちはそんな源氏の姿を素晴らしい男の方と眺めていた。
とりわけ女房の中に混じっていた、葵がかわいがっていた小さい童女で、両親とも死に別れて、今また頼りにしていた葵にも別れてとても心細く思っているのを、もっともだと、源氏はその子供に
「あてき、あなたはこれからはわたしを頼らねばならないようだね、いいよそうしなさい」
と声をあてきにかけると、あてきは大声で泣き出した。小さい衵、誰よりも濃く染めて、黒い汗衫、萱草色の袴などを着ているのも、かわいらしい姿である。
作品名:私の読む「源氏物語」--14- 作家名:陽高慈雨