私の読む「源氏物語」- 12-
源氏はそんな女の姿を、かわいらしいとしばらく見ているうちに、間もなく外が明るくなって行ったので、あわてて直衣をととのえ、女も気が付いて乱れた衣装を直す、源氏は女房達が起き出すとあせった。女は、男以上にいろいろと思い悩んでいる様子である。そんな女に源氏は、
「やはり、お名前をおっしゃってください。どのようして、お便りを差し上げましょうか。このまま二人の逢瀬が終わろうとは、いくら何でもお思いではあるまい」
と女に告げると、女は、
憂き身世にやがて消えなば尋ねても
草の原をば問はじとや思ふ
(不幸せな身のまま名前を明かさないでこの世から死んでしまったなら、野末の草の原まで尋ねて来ては下さらないのかと思います)
と詠む女の態度、優艶で魅力的である。
「ごもっともだ。先程の言葉は間違っていました」
と源氏は言って、
いづれぞと露のやどりを分かむまに
小笹が原に風もこそ吹け
(どなたであろうかと家を探しているうちに
世間に噂が立ってだめになってしまうといけないと思いまして)
迷惑にお思いでなかったら、何の遠慮がいりましょう。ひょっとして、おだましになるのですか」
と、言い終わらないうちに、女房たちが起き出して、上の御局に参上したり下がって来たりする様子が、騒がしくなってきたので、仕方なく、源氏は扇だけを証拠として互いに交換し合って、そこを出ていった。
源氏の住む桐壷には、女房が大勢仕えていて、目を覚まして源氏の朝帰りを見ている者もいるので、
「何とも、ご熱心なお忍び歩きですこと」
と突つき合いながら、空寝をしていた。
源氏は自分の宿直所に帰って横になったが、先ほど別れた女が気になって眠ることができない。
「美しい人であったなあ。弘徽殿の女御の御妹君であろう。まだうぶなところから、五の君か六の君であろう。弟帥の宮の北の方や、頭中将が妻にしたが気にいらない四の君などは、美人だと聞いていたが。かえってその人たちであったら、もう少し味わいがあったろうに。六の君であったなら、春宮に入内させようと心づもりをしておられるから、気の毒なことであるなあ。大勢いる右大臣の娘の何番目の姫君か探すのが厄介なことだ、尋ねて行くこともなかなか難しい、あのまま終わりにしようとは思っていない様子であったが、どうしで、便りを通わす方法を教えずに帰ってしまったのだろう」
源氏はいろいろと気にかかるのも、彼女に心惹かれるところがあるのだろう。このようなことにつけても、まずは、「あの藤壺の周辺の有様は、どこよりも固いことで」と、珍しくこの弘徽殿の警備との違いを比較せずにはいられない。この警備が緩くて幸運であったとつくづく思うのであった。
女と朝に別れた源氏は、その日後宴の催しがあって、一日中忙しかった。十三絃の箏の琴の役をこの日は勤めたのである。昨日の宴よりも長閑な気分に満ちていた。藤壷は、暁に清涼殿の上の御局にお上りになった。源氏は昨夜弘徽殿で逢った女のことを「あの有明に抱いた女は、退出してしまったろうか」と、心も上の空で、何事につけても手抜かりのない源氏の乳兄弟、良清、惟光に命じて、弘徽殿の動きを見張りをさせていた。源氏が演奏を終わり、帝の前から退出して宿直所のほうへ帰ると、二人が報告に来た。
「ただ今北の御門のほうに早くから来ていました車が皆人を乗せて出てまいるところでございますが、女御方の実家の人たちがそれぞれ車の方に行きます中に、四位少将、右中弁などが御前から下がって来てついて行きますのが弘徽殿の実家の方々だと見受けました。ただ女房たちだけでなく男の方も乗られて、車が三台ございました」
と源氏に言う、源氏は胸がどきっとなる。「どのようにして、昨夜の女を確かめ得ようか。父右大臣などが娘が源氏と関係したと聞き知って、大げさに婿扱いされるのも、どんなものか。それに、まだ相手の姫君の事情をよく見届けぬうちは、(六の君ならば、東宮妃に予定されていたりするから)事めんどうであろう。そうかといって、確かめないでいるのも、それもまた、誠に残念なこと、どうしたらよいものか」と、思案に余って、ぼんやりと考え込んで横になっていた。
「紫は、どんなに寂しがっているだろう。何日も会っていないから、ふさぎこんでいるだろうか」と、二条邸にいる紫をいじらしく思いやる。あの証拠の女と取り替えた扇は、桜色の薄様を三重に張ったもので、地の濃い所に霞んだ月が描いてあって、下の流れにもその影が映してある。図柄はよくあるものであるが、人柄も奥ゆかしく使い馴らして女の香りが染みついているようであった。「草の原をば」と言った時の美しい様子が目から去らない源氏は、
世に知らぬ心地こそすれ有明の
月のゆくへを空にまがへて
(今までに味わったことのない気がする、有明の月の行方を途中で見失ってしまって)
と扇の面に書きつけて、取って置いった。
「葵にも長いこと逢わないなあ」と源氏は思うがやはり二条邸の紫のことが気に掛かる、慰めようと思い、二条院へ一旦帰ることにした。
紫は見れば見るほどとてもかわいらしく成長して、魅力的で利発な気立て、本当に素晴らしい。不足なところなく、源氏が自分の思いのままに教えよう、と考えていたことに、叶う感じである。男の養育方法なので、多少男馴れしたところが紫にはあるかも知れない、と思う点が不安であった。
紫が語るこの数日来の出来事をゆっくりと聞いて、また源氏が琴など教えて一日過ごして、また、源氏が出かけるのを、紫はこれまでは残念に思って、駄々をこねたが、今ではとてもよく躾けられて、むやみに源氏の後を泣きながら追ったりしなくなった。
葵の上の左大臣邸に源氏が行くと、例によって、葵は直ぐには夫の源氏の前に姿を見せない。源氏は所在なくいろいろと考え廻らして、そこにあった十三弦の箏をなんとなく弾いて、
『催馬楽』「貫河」の「貫河の瀬々の やはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線がいの 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ」
と謡っていると。舅の左大臣が部屋に来て、先日の宴の賑わいや趣深かったこと、などを話している。
「この高齢で、帝四代にお仕えして参りましたが、今度のように皆様の作られた漢詩が優れていて、舞、楽、楽器の音色が整っていて、こんなに寿命の延びる思いをしたことはありませんでした。それぞれ専門の道の名人が多いこのころに、詳しくそれぞれの達人を精通していらして、揃えられたからです。わたくしごとき老人も、百十三歳の尾張連浜主が仁明天皇の御前で長寿楽を舞ったという故事につられて、ついつい舞い出してしまいそうな心地が致しました」
と言うと、、
作品名:私の読む「源氏物語」- 12- 作家名:陽高慈雨