私の読む「源氏物語」 ー9-
「若草」と孫娘を例えて尼君の歌った晩春の山の夕べに見た若紫の面影が、思い出されて恋しいとともに、もしこの屋敷に彼女を引き取って幻滅を感じるのではないかと、危ぶむ心も源氏にはあった。源氏はそっと詠った、
手に摘みていつしかも見む紫の
根にかよひける野辺の若草
(手に摘んで早く見たいものだ紫草にゆかりのある野辺の若草を)
と、紫に恋しい藤壺の宮をかけ、その姪である紫の君を若草に例えた。
十月に帝は離宮の朱雀院へ行幸の予定であった。舞人などを、高貴な家柄の子弟や、上達部、殿上人たちの中から、楽器や舞に堪能な人々は、皆選ばれたので、親王たちや、大臣をはじめとして、選に入った人たちはそれぞれ担当の伎芸を練習で暇がなくなった。
北山に病が重くなったと言って移って行った尼君に、暫く連絡をすることもなかったので、どう暮らしているのかと、使いを送った。弟の僧都からの文だけが使いから源氏の許にもたらされた。その文には、
「先月の二十日に、姉はなくなりました。老いた者が亡くなるのは世間の道理ではありますが、身内の者を亡くしますと淋しいもので御座います」
と書かれてあるのを源氏は読んで、世の中の無常をしみじみと感じて、「若紫はどうしているだろう。子供心にも、祖母の尼君を恋い慕っているだろうか。わたしも三歳の時に亡き母御息所に先立たれた頃には」などと、幼年であるからはっきりと憶えていないが、それでも当時のことを思い出して、亡き尼君にと丁重にお弔いを送ったのである。若紫の乳母である少納言女房から、丁寧な返礼などがあった。
十月の二十日頃忌みが終わったので尼君の身内の者は京極の家に戻ったと源氏は聞き、少し日にちをおいて源氏が、ある静かな夜に若紫を尋ねた。京極の家は荒れ果てた上に人も少ないので、幼い若紫はさぞかし恐ろしがっているのではなかろうかと、源氏は思った。訪れた源氏を先に尼君を見舞ったときに案内された寝殿の南廂の間にまた座を設けて、御簾の中から少納言の女房が、尼君のご臨終の有様などを、泣きながらお話申し上げると、他人事ながら、源氏も悲しくなり袖も涙でつい濡れてしまた。
「姫様の父兵部卿宮邸にお引き取り申し上げようとの話がありますが、尼君様が生前、『姫様の母上の方が、兵部卿の北の方をとても情愛のない嫌な人と思っており、まだ幼児だというので、まだしっかりと人の意向を聞き分けることもできず、中途半端な年頃で、大勢兄妹がおられるという中で、軽く扱われるのではないか』などと、始終ご心配されていらしたこと、この度のことではっきりとしたことが多くございましたので、源氏様からこのようにお気まぐれから姫様を引き取りたいと、おっしゃってくださいますことも、将来はたとえどうなりますにしましても、今のところお救いの手に違いないと私どもは思っていまう、源氏様の奥様になどとは想像も出来ませんような姫は幼子でございまして、あのお年頃よりもずっと幼いので御座います」
と源氏に少納言は申し上げる。源氏はまたも卑下してと苦い思いをするが、
「どうして、このように繰り返して申し上げている私の気持ちを、素直に受け取らずに変に気兼ねなさるのでしょう。貴方の言われる、幼いお考えの様子がかわいく愛しく思われるのも、何か前世からの宿縁と、わたしの心には自然と思われてくるのです。人を介してではなく、直接お話ししたいものです。
あしわかの浦にみるめは
かたくとも
こは立ちながらかへる波かは
(姫君にお目にかかることは難しかろうとも
私はお会いするまでは和歌の浦の波のように、このまま立ち帰ることはしません)
私を蔑ろにするのは程々にして下さい。」
と少しきつく言う。少納言は、恐縮して、
「いえいえこんな勿体ないことを」と言って源氏の歌に返す
寄る波の心も知らでわかの浦に
玉藻なびかむほどぞ浮きたる
(和歌の浦に寄せる波に身を任せる玉藻のように、相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです)
本当にこのことでは困っております、苦しめないで下さい。」
と少納言が答えるのを聞いて源氏は、もの馴れたしたたかな答え方よと苦笑しながらも、
「どうしても帰れないよ」
と言い張るのを聞いていた若い女房達が、二人の丁々発止の問答に、鳥肌が立つように感じていた。
若紫は亡き祖母の尼君を恋い慕って泣いてばかりしていたが、常に側にいてこの娘の相手になっていた女房が、
「直衣を着た方が来ていらっしゃいますよ。父宮様が来ていらっしゃるのでしょう」
と言ったので、涙を拭いて源氏の側にやってきて、
「少納言、直衣着た方どちら、父宮様なの」
こう言いながら乳母のそばへ寄って来た声が源氏にはかわいかった。父宮ではなかったが、やはり深い愛を紫に持つ源氏であったから、心がときめいた。
「父宮さまではありませんが、関係ない人ではありません。こちらへ」
と源氏が声をかけると、前に逢ったあの素晴らしい方だと、子供心にも分かり、まずいことを言ってしまったと思って、乳母の側に寄って、紫は
「ねえ、あちらへ行きましょうよ。眠いから」
と恥ずかしそうに言う。
「何も恥ずかしいことはないよ、さあ、私の膝の上でお休みなさい、こちらへお出で」
と源氏が笑いながら言うと、乳母が、
「このようにまだ幼い方ですので」
と乳母は紫を源氏のほうへ押しだした、紫はそのまま無心にすわっていた。源氏が御簾の下から手を入れて紫を探ってみると柔らかい着物の上に、ふさふさとかかった髪が手に触れてこの娘の美しさが想像された。紫の手を取ってみると、父宮でもない男性が手を取ったので紫は恐ろしくて、
「私、眠たいと言ってるでしょう」
と、強く手を引っ張り込んで源氏から離れようとするので、つい源氏も引き入れられて御簾の中に入り込んだ。
「今は、わたしがあなたの世話をする人ですよ。お嫌いにならないでね」
と声をかけると、乳母の少納言が、
「何と情けのないことをなさります。お話しになりましても、姫には何の効き目もございませんでしょうのに」
と困ったように言う。源氏は、
「いくら何でも私はこの小さい姫様を情人にしようとは思ってもおりませんよ。まあ私がどれほど真面目にこの姫様を思っているのか御覧なさい」
外には霰が降っり風も凄い夜である。
「こんなに少ない女ばかりの人数でこの寂しい邸にどうして、住めるのですか」
と源氏は泣きそうになっていた。このまま帰ってしまうことが出来ないのであった。そうして意を決して女達に
「もう戸をおろしておしまいなさい。こわいような夜だから、私がこのまま宿直の男になりましょう。女房方は皆姫さんと室へ集まって来なさい」
と源氏は女房達に半ば命令するように言って、とても物馴れた態度で若紫を抱き上げて御帳の内側に入ってしまったので、突然の源氏の変わった行動に、女房達はあっけにとられて、茫然としている。少納言は、姫が心配であんな幼い姫と源氏が共に帳台にいるなんて大変なことだと思うが、事を荒立てては相手は源氏という貴公人であるので、嘆息しながら女房達と共に見守っているだけであった。
作品名:私の読む「源氏物語」 ー9- 作家名:陽高慈雨