私の読む「源氏物語」 ー7-
と、笑いながら手を叩くと、その音が部屋に反響して、まことに気味が悪い。誰も手を叩く音を聞きつけないで参上しない、横の女は、ひどくふるえ脅えて源氏に抱きつき、気が動転して汗びっしょりになって、源氏の腕の中で失神してしまった様子である。
「むやみにお怖がりあそばすご性質ですから、どんなにかお怖がりのことでしょうか」
と、日頃の女の性質を良く知っているので右近は源氏に申し上げる。源氏は、
「ほんとうにか弱い女だなあ、昼も明るい空ばかり見ていたものだな、可哀想に」
とお思い、
「わたしが、誰かを起こそう。手を叩くと反響してまことにうるさい。こちらに来て、しばらくは女の近くへ」
と言って、右近を引き寄せて、西の妻戸に出て、源氏は戸を押し開けると、渡殿の火も既に消えていた。
風がわずかに吹いているうえに、人気も少なくて、仕えている者は皆寝ていた。この院の管理人の子供で、親しく源氏はいろいろとお使いになる若い男、それから殿上童一人と、いつもの随身だけがいる。呼び寄せると、返事して起きたので、
「紙燭を点けて持って参れ。『随身にも、弓の弦打ちをして、絶えず音を立てていよ』と命じよ。人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。惟光朝臣が来ていたようだが」 と、尋ねる、
「惟光様は控えていましたが、ご命令もない。早暁にお迎えに参上する。と申して帰ってしまいました」
と返事がある。こう申す者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れた様子に打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ行ったようだ。源氏は内裏を思いだして、
「亥の一刻(午後九時)に行われる宿直の名乗り、名対面は過ぎたろう、名対面の後に行われる滝口の武士の名乗り、、滝口の宿直奏しは、ちょうど今ごろか」
と、源氏が推量するのは、まだ、さほど夜も更けていない。
戻って西の対の部屋に入って、確かめると、女はそのままに臥していて、女房の右近は傍らにうつ伏していた。
「これはどうしたことか。何と、ひどい怖がりようだ。住人の居ない荒れた所には、狐などのようなものが、人を脅かそうとして、出てくることがあるものだ。わたしがいるからには、そのようなものは寄せ付けない」
と言って源氏は右近を引き起こす。右近は気づいて
「とても気味悪くて、動転して気分も悪うございますので、うつ伏しているのでございますよ。ご主人さまこそ、ひどく怖がっていらっしゃるでしょう」
と言うので、源氏は
「そうだ。どうしてこんなに」
と言いながら、夕顔の花の女を探ってみると、息もしていない。身体を揺すってみても、ぐったりとして、正体もない様子なので、
「ほんとうに子供みたいな人なので、魔性のものに魅入られてしまったらしい」
と、源氏にはどうしていいか気づかせる方法がない。
院の管理人の子供が紙燭を持ってきたので、少しは周りが明るくなった。右近も恐怖で動ける状態でないので、源氏は近くの御几帳を引き寄せて、子供に
「もっと近くに持って参れ」
と紙燭持ってきた子に言う。いつもと様子が違うので、御前近くに参上できず、子供は紙燭を持ったままためらっていて、長押にも上がれない。源氏は更に子供に、
「もっと近くに持って来なさい。場所を考えて早く」
と言って、紙燭を寄せて夕顔を見ると、ちょうど彼女の寝ている枕上に、源氏の夢に現れた姿をしている女が、幻影のように現れて、ふっと消え失せた。
「昔、河原院に宇多法皇が京極御息所を連れて一夜を明かした時、その院の元の主、源融の霊が現れて、御息所が気絶したという話が伝えられているが、このようなことは聞いいているのだけれど」
源氏は言葉に出すが、気味悪いが、まず、
「この女はどうしたのだろうか」
と思う不安に、もののけに取りつかれた人に近付くと、危険が自分に及ぶだろうという言い伝えも忘れ、夕顔に添い臥して、
「おいおい、おいおい、」
と、軽く彼女の身体をたたきながら起こそうとするが、胸元に差し込んだ源氏の手には彼女の温もりはなかった。夕顔の息はとっくにこと切れてしまっていたのであった。どうすることもできない。頼りになる、ここの処置を相談できるような者もいない。
法師がおればこのような時の頼みになる思うが。それも無理なことである。夕顔の女に仕える女房の右近に源氏が強がりを言うが、とにかくまだ若い良い考えが浮かばず、ただ空しく死んでしまった夕顔の女を見ていると、どうしようもなくなり、ひしと抱いて、
「おまえよ、生き返っておくれよ。私を悲しい目に遭わせないでおくれよ」
と何回も繰り返して言うが、冷たくなった夕顔は、死相が現れる感じで、気味悪くなって行く。
女房の右近は、ただ物の怪に動転して「ああ、気味悪い」と思っていた気持ちもすっかり治まって、主人の死に、泣いて取り乱す様はまことに大変であった。
源氏は、藤原忠平が紫宸殿で鬼と出会ったが、一喝して退散させたという話を思い出して、気強く、
「いくら何でも、彼女が死んだのではあるまい。夜の声は大げさに聞こえる。静かに」
と右近を諌めるが、まったく突然の事なので、源氏は茫然としていた。
源氏は、先ほどの管理人の子供を呼び寄せて、
「ここに、不思議な魔性のものに取り込まれて人が苦しんでいる。今すぐに、惟光朝臣の泊まっている家に行って、急いで来るように伝えてくれ。惟光の兄の阿闍梨が、そこに居合わせていたら、その人も共にここに来るよう、こっそりと言いなさい。あの惟光の母の尼君などが聞こえないように、大きな声で大層に言うのではないよ。尼君は私にこのような忍び歩きは許さない人だからな」
などと、用件を伝えるのだが、源氏は胸が一杯で、夕顔の女を死なせてしまったらどうなるのか考えつかず、加えて、この辺りの不気味な空気が、譬えようもない恐怖を源氏に与えている
夜中も過ぎたのだろう、風がやや荒々しく吹いている。その上に、松風の響きが、深い林の奥から聞こえ、異様な鳥がしわがれ声で鳴いているの、「梟は松桂の枝に鳴き」の白氏文集の「梟」と言う鳥はこのことかと源氏は思う。あれこれと考えていると、この院のあちらこちらと、何となく人里離れて気味悪いうえに、人声はせず、「どうして、このような処を選んで、心細い外泊をしてしまったのだろう」と、源氏は後悔するがしようがないことである。
女房の右近は、頭の中が空白になってしまい何も考えられず、源氏にぴったりと寄り添って、いまにも震え死にそうにがたがたと震えている。「この人もどうかなってしまうのだろうか」と、源氏の肩を気も上の空で掴まえている。源氏は自分一人が正気でありながら、どうしようかと途方に暮れているのであった。
灯火は微かに風にあおられてゆらゆらとし、母屋の境に立ててある屏風の上が、炎が揺れるのに合わせてあちらこちらと火影が揺らぐ、魔物の足音が、廊下をみしみしと踏み鳴らしながら、源氏の後方から近寄って来る気がする。「惟光よ、早く来ないかな」と思う。彼も居場所が定まらぬ者なので、子童があちらこちらを探しているうちに、夜が開ける。この間の待ち遠しい気分は、まだ若い源氏には千夜を過したような気がした。
作品名:私の読む「源氏物語」 ー7- 作家名:陽高慈雨