私の読む「源氏物語」ー4-
「突然のことで、私のこと一時の戯れ心とお思いになるのも、ごもっともですが、長年、恋い慕っていましたわたしの気持ちを、聞いていただきたいと思いまして。このような機会が待ち受けていたのも、私と貴女の深い前世からの縁と、お思いになって下さい」
と、源氏は優しく語りかける、その声、匂い、鬼神さえも手荒なことはできないような態度なので、空蝉は「ここに、変な人が」とも、大声が出せない。気分は辛く、このようなことあってはならないと思うと、情けなくなって、
「お人違いでございましょう」
やっとのこと言うのである。
消え入らんばかりにとり乱し掛けた衣を固く身体に巻き付けたり、体を固くして男の次の動作に備えたり、その姿が源氏にはまことにいたいたしく可憐に見えて、いい女だと御覧になって、
「間違えるはずもない私の心を、意外にも理解しても下さらずはぐらかしなさいますね。好色めいた振る舞いは、決して致しません。気持ちを少し申し上げたいのです」
と言って、空蝉はとても小柄なので、抱き上げて自分の部屋へと襖障子までお出になるところへ、さきに呼んでいた中将らしい女房が来合わせた。源氏は
「これ、これ」
と源氏が中将に言うと、中将は暗いので不審に思って手探りで近づいたところ、源氏と空蝉の薫物の香があたり一面に匂っていて、顔にまで匂いかかって来るような感じがした。中将はこの場のことが理解された。源氏様と空蝉様、意外なことで、これはどうしたことかと、おろおろするのであるが、高貴なお二人方、何とも手出しの方法がない。普通の男と女ならば、手荒に引き放すことも出来るが、それでも大勢の人が知ったらどうであろうか。中将の女房は胸がどきどきしながら、後からついて来たが、源氏は平然として空蝉を抱いたまま、奥の自分の寝床に入ってしまった。
襖障子を引き閉てて、
「明朝、お迎えに参られよ」
と源氏が中将に言う声を聞きながら、空蝉は、中将の女房がどう思うかを考えると、死ぬような気持ちで、流れ出るほど汗びっしょりになって、とても悩ましい様子でいる。源氏は気の毒であるが、いつものように誠実な声で、愛情がわかってもらおうと、優しく優しく、言葉を尽くして空蝉に話しかける、しかしやはり女は人間としての掟に背けないので源氏の恋には同意してこない、空蝉は勇気を出して源氏に訴える、
「これが、貴女が私を冒そうとなさること、真実のこととは思われません。しがない身の上ですが、軽蔑なされたこの行為、貴方のお気持ちを、お恨み申し上げます。まことに、このような卑しい身分の女でも、それなりの生き方がございます」
と言って、空蝉の身体を求めようとする源氏の行動を防ぐ、また彼女は、源氏自身が思いやりがない嫌な行いだと思い込んでいる様子を見て取って、こんな源氏の有様を気の毒な気もするし、源氏の様子も気後れしている様子である、源氏は
「卑しい身分とおっしゃる身分の違いを、まだ知りません、貴方の口から聞くのが初めての事です。わたしを普通の男と同じように貴女が思っていらっしゃるのが残念です。自然と私のことをお聞きになっておられましょう。私は無理矢理女の人を犯す、そんなことをお聞きになったことはないでしょう、そんな好色がましい心は持ち合わせておりません。貴女と私は前世からの因縁でしょうか、貴女がおっしゃるように、このように軽蔑される行為も、当然わたしの心の貴女に対する惑乱です、自分でも不思議なほどわたしはあなたの魅力に引きつけられています」
源氏は真面目になっていろいろと空蝉に語られる、まことに類ないご立派な男の方、彼女はますます打ち解けにくくなる、こんな私を無愛想な気にくわない女だと源氏は思うだろうが、そうしたつまらない女としてここは押し通そうと思い、ただそっけない態度をとり続けていた。この女はおとなしい性質であるところに、無理に源氏に対して気強く張りつめているので、しなやかな竹のような感じがして、これでは簡単には手折れそうにもないと源氏は感じた。
このように辛く嫌な思い、源氏の無理無体なお気持ち、空蝉は何とも言いようがなく、泣いているばかりである。源氏はこの姿をまことに哀れである、気の毒なことをした、だが空蝉とこうならなければ心残りであったろう、ともお思う。彼は気持ちの晴らしようもなく、自分を情けないと思って、
「どうして、こうも私をお嫌いになるのですか。思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だと考えて下さい。男女の仲を知らない初な女のように、泣いていらっしゃるのが、私にはとても辛い」
と、恨み言をいわれる、女は
「伊予の介の妻となる前の昔の時代に戻りたいものです、そうしたら今のあなたとの関係も、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、身勝手な言い方ですが、貴女の愛撫を受ける時があったかも知れないと思うのですが、とても今のように、一時の浮気だと思いますと、どうしようもなく心が乱れて本気に体を許す気にはなれません。たとえ、心が定まらない私の身体を奪われることがあっても、他の人には喋らないでください」
と言って、悲しんで言う空蝉の言葉は、いかにももっともである。源氏は色々と言葉を並べて空蝉の行く末を約束し慰めなさった。
うまく彼女は源氏を袖にしたのであった。
源氏には情けない夜明けがやってきて、鶏も鳴いた。供びとが起き出して、騒々しくなる
「ひどく寝過ごしてしまったなあ」
「お車を引き出せよ」
などと言っているようだ。紀伊守も起き出して来て、
「女性などの方違えならばともかく。暗いうちからお急きあそばさずとも」
などと言っているのも聞こえる。
源氏は、再びこのような機会があることはとても難しいし、わざわざ空蝉を訪れることは出来ることではない、手紙なども送りつけることも無理なこと、とお思うと、ひどく胸が痛む。奥にいた空蝉の女房の中将の君も出て来て、昨夜のことをとても困っている、源氏は空蝉と別れても、すぐ引き留めて、
「どのようにして、お便りを差し上げたらよかろうか。貴女の気持ちの冷たさ、慕わしさ、私の心に深く刻みこまれた思い出は、めったにないことであった」
と言って、源氏はうっすらと涙を流す様子は、とても優美に空蝉には映ったのである。
鶏もしきりに鳴くので、気もせかされて、
源氏は空蝉に
つれなきを恨みも果てぬ
しののめに
とりあへぬまで
おどろかすらむ
(あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ、鶏までが取るものも取りあえぬままあわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか)
空蝉は、昨夜のわが身の上を思うと、釣り合わない身分の高い源氏から色々と言い寄られたことは、何とも感ぜず、いつもはとても生真面目過ぎて嫌な男だと嫌な気持ちで接している夫の事を愛しいと思われて赴任先の伊予国での夫を思っていた。夫が源氏のことで「怒って夢に現われやしないか」と思うと、何となく恐ろしくて気がひけるのであった。
その気持ちを源氏に返歌で返した
身の憂さを嘆くにあかで
明くる夜は
とり重ねてぞ
音もなかれける
作品名:私の読む「源氏物語」ー4- 作家名:陽高慈雨