英雄の証
神殿の廊下から見える中庭は夜の静寂さと月明かりを浴びて美しく輝いていた。その中庭にいる人物をアレクとザヴォラムは見て取った。
小さな池の近くで地面に腰を下ろし、肩を寄せ合う二人。それはキルスとその身体に取り憑いている美しい女性の霊だった。
キルスの取り憑いている霊は彼の婚約者であるという。その婚約者の名はローゼン。彼女が死んだ時、キルスは禁じられた古の魔導によってローゼンを自分の身体に取り憑かせたのだと云われている。
アレクとザヴォラムはこの世のものではない幻想的なもの魅入られて、無言で佇む二人を見つめてしまったが、しばらくして相手に見つかる前にこの場を早々に立ち去ろうとした。だが、キルスによって呼び止められてしまった。
「二人とも待て!」
静かな夜にキルスの声が響いた。足を止めるアレクとザヴォラム。
身体を強張らせる二人に対してキルスは囁くように言葉を零した。
「今宵は月が綺麗だ、そう思わんか二人とも?」
キルスから話かけられるなどアレクは夢にも思わなかった。
ゆっくりと歩み寄って来るキルスに対してアレクの緊張は高まり、それに比べてザヴォラムは平然とした態度を保っていた。
「キルス様、何か御用で御座いましょうか?」
「特に用はないが、夜更けの神殿内で人と出くわすことも珍しい。二人は何をしていたのだ?」
ローゼンが死んだ後、キルスは自室に引きこもるようになり、必要以上に人とかかわらないとアレクは聞いていた。そのキルスが会話を続けようとしているのだ。
アレクは理由を話すのが恥ずかしく口ごもり、ザヴォラムが先に口を開いた。
「神殿内の見回りをしておりました」
この言葉にキルスは少し妖々たる笑みを浮かべた。その笑みの真意をアレクは理解できないが、ザヴォラムには察しがついていた。
この国の神官長と巫女は人の心を覗くことができるとまことしやかに囁かれている。その神官長を前にして嘘を突き通せる者はまずいない。
神殿内に耳を傾けたキルスはザヴォラムの瞳を見据えて呟いた。
「今宵はいつもより見回りの数が多いらしいな」
この発言を聞いたザヴォラムは胸を鷲掴みにされた気分だった。やはり、囁かれている噂は事実なのだと思い知らされるはめになってしまった。
口を摘むんでしまったザヴォラムからアレクへキルスの視線が移動する。
「第一飛空部隊長の君は夜の見回りとは無関係だろう? 君は何をしていたのだね?」
「私は……その……」
妖々とした闇色の瞳でキルスはアレクを見据えた。この瞳から逃げる術をアレクは知らなかった。この瞳はいつか見つめられた巫女の瞳と全く同じ――いや、それよりも深い色をしていた。
「口ごもり嘘を考えるくらいなら、答えなくてもよい。私も静かな夜に出歩くのが好きだからな」
「私は嘘をつこうなどとは……!?」
アレクの目が大きく見開かれ、キルスの後方にあるものを見定めた。
場の静寂を掻き消すようにアレクの叫びが木霊する。
「お避けください!」
瞬時にアレクの手から放たれた炎の玉はキルスの横を掠め飛び、その後ろにいた鋼の鱗を持った蛇の怪物に命中した。
燃え上がる怪物と、その周りにいる怪物たちを見ながらキルスは不機嫌そうに呟いた。
「この神殿の警備も大したことがない。ムーミストの力が弱っているのか、それとも……?」
怪物たちに混ざって人間の姿も見受けられる。都市内に怪物が入り込んだことはあっても、この神殿内に怪物が入って来たことは一度もなかった。
敵を確認したアレクは魔導を発動しようとし、ザヴォラムはキルスの前に立って守ろうとしたのだが、二人はキルスの黒瞳――魔眼に見つめられて身動きを封じられてしまった。
身体が全く動かない。かろうじて動かせたのは顔だけであった。
アレクがキルスに向かって声を張り上げる。
「何をなさるのですか!?」
驚いたアレクに対してキルスは冷笑を浮かべた。
「奴らの狙いはこの私だ。ならば相手をしてやろうではないか」
月明かりを浴びてキルスの守護霊であるローゼンはよりいっそう輝きを増した。
キルスの身体から流星のように放たれたローゼンは敵を輝きで呑み込み一掃した。それは一瞬のできごとであり、アレクは唖然としてしまった。
敵は跡形もなく消え、ローゼンはキルスのもとに擦り寄りより厚い抱擁を交わした。
「キルス……様」
ローゼンが口を開いた。そのことにアレクを驚かずにはいられなかった。
「その霊は人語をしゃべるのですか……いや、感情というもがあるのですか?」
哀しい表情をしてキルスが首を振った。
「いや、彼女は死人だ。生きていた時の記憶は徐々に失われ、今は私の名を呼ぶことで精一杯だ」
先ほどローゼンが放った眩い光のせいか、人々が起き出して中庭に集まって来た。
キルスはアレクに背を向けた。
「私は部屋に戻る。この場に集まって来た者への説明は君に任せる」
アレクの視界からキルスが消えた瞬間、彼女にかけられていた魔導は解かれ。身体の自由が利くようになった。
アレクが辺りを見回すとザヴォラムの姿もいつの間にか消えていた。
その後、アレクはこの場に集まって来た魔導士などに敵の襲撃を伝え、神殿内は騒然とした雰囲気に包まれた。
怪物が神殿内に侵入したことも前代未聞であるが、キルスを襲おうとした中に人間がいたことが大問題だとされた。
まさか、メミスの都に神官長への反逆を企む者がいようとは、それは守護神であるムーミストへの反逆に等しい。
神官長を襲った者は自発的に行動をしたのか、それとも誰かに操られたのか、今のところは何もわからない。全ては深い夜の闇の呑み込まれてしまった。
巨大な雷鳥が天を駆け、崖から見渡す光景は遥かなる地平線を望めた。
山の上は風が吹き、黄土色の砂埃が舞っている。
騎獣に乗った7人の影。名だたる魔導士の騎獣はどれも高価もので、中でもアレクとキルスの乗る騎獣は群を抜いており、アレクの騎獣は蝙蝠の翼を持つ黒馬、キルスの騎獣は白い翼を持つペガソスであった。
〈血の雫〉を取りに来たのはラーザァーと神官長であるキルスの七名。この者たちだけで〈血の雫〉を取りに行かねばならないという仕来りがあるのだ。
ザルハルト山には凶暴な怪物がいることで有名なのだが、〈血の雫〉を取りに行くルートはムーミストの守護により怪物を寄せつけない。そのため、何事もなく旅路は進む。
一行はザルハルト山の中腹にある洞窟へ向かっている。その洞窟の中に〈血の雫〉は封印されているのだ。
約3メティート(約3.6メートル)はあるであろう岩の前でキルスは騎獣から降りた。この岩の奥に洞窟の入り口があるのだが、その前にまずは岩を退かし、その後に結界が張ってあるのでそれも解かなくてはならない。
岩に触れたキルスはそのままラーザァーのいる後ろを振り向いた。
「私の役目は〈血の雫〉への案内役と、この先にある結界を解くことのみ、それ以外のことで君たちの手助けをすることは何があろうと禁じられている。まずは君たちの力によってこの岩を退かしてもらう」
作品名:英雄の証 作家名:秋月あきら(秋月瑛)